徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

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アイコンに対する1/3の純情な感情

ツイッターにしろラインにしろブログにしろ、必ずアイコンを設定しろと最初に催促される。本人画像であれ、異なれ、必ず何かしら自分を司る画像を載せろと言われる。素直に自分を出すにしろ、控えるにしろ、自分の意思がこもった画像が自分として世の中に流布されるわけだ。どうしても慎重に選ぶ。自分にふさわしい画像とは。自らのコンプライアンスを犯さない程度に自分を表す画像とは。

まぁ、それはぽんぽんと変えていく人もいれば、まさにこの画像が君だって程ずっと君臨するアイコンもあるわけで。で、まぁ、究極のところ人のアイコンをそうそう興味をもってまじまじと見ないわけで。なんだっていいんだあんなもんって思う気持ちがムクムクともたげたと思えば、次の瞬間には慎重チキンな自分が顔を出して、やっぱ無理や…って当たり障りない画像に落ち着く。


対外的に発信する画像はもちろん、この問題は皆さん大好きスマホの待ち受け画面にも飛び火する。1日のうちに一番見る景色ランキングを開催したとして、待ち受け画面は相当の上位に位置するに違いない。1日に何度も何度も見る絵面。何にしようか。

大好きな絵とか写真がある人はいい。待ち受けをその画面にしさえすれば幸せだ。でも人間だれもがビジュアル的幸せを追求しているとは限らない。結果、迷う。

その昔、ロック画面をマリオのキノコにして、待ち受け画面を超元気にジャンプしてるマリオにしていたことがあった。キノコ食べてヤッフー!みたいな動きつけようと苦心していた。後輩に面白くないって言われてやめた。


つまるところが誰も気にしやしないのだ。髪の毛を切ったときのように、メガネを変えたときのように、知らずに変わっているのがアイコンであり、誰より自分が気にしてしまうのがアイコンだ。盛大にウケを狙おうと思うと誰も反応しなければ、なんでもない画像を設定したらアラを探される。それがアイコン。

アイコンだから悩まされるのだ。ポップアイコンといえばマイケルジャクソンだし、セックスアイコンといえばマドンナ。アイコンという名称が重すぎる。「変わり身」なんてどうだ。「仮初め」なんでどうだろう。

○○さんの仮初めが変更されました

なんで通知が来たとしたら。やっぱ見るか。見ちゃうな。


弊ブログのアイコンも徒然雑草という名前で、全然関係ない紫式部である。吉田兼好なんてアイコンにしたって誰もわからんから、わかりやすい式部である。例えば徒然雑草のアイコンがメトロポリタンな画像だとしても、それはそれなのだろう。考えるほどのことでもなければ案ずるほどのことでもない。

盛大にアイコンで遊ぶといいわけだ。遊べ巷よ若人よ。

少なくとも僕は保守的アイコンを貫きます。無難こそ、無難こそ正義。