徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

水面と暮らし

横須賀線に乗っている。総武線と乗り入れて、千葉の向こうの方から神奈川のあっちの方まで人を運ぶ路線。
西大井と武蔵小杉の間に、東京と神奈川を隔てる多摩川が流れる。雨が最近降らない東京だ。川は仏さながらの穏やかさで河川敷を映し、川辺のビルを映す。

水平線がずーっと続いているような海を、やや1年前に見た。一人旅をした、去年の2月。今は亡き祖母の故郷である、淡路島の小判鮫のような離島、沼島でのことだ。海風が容赦なく吹いていた。冬の朝の海風だ。寒くないはずがない。しかし、寒さを堪えてずっと海を眺めていた。空と海との間がこんなにも曖昧な海があるのか。こんな海を見て育ってみたかったと、心底思ったものだ。故郷にしてみたい風景だった。

雑然とした夜景を見ると、この光の数だけの営みと暮らしがある事実に頭がおかしくなりそうになる。綺麗な光の1つにクローズアップしたら、誰かが今にも命を絶とうとしているかもしれない。ありえない話じゃない。かと思えば、そりゃ生まれてくる命もあるだろう。
多摩川のへりに建つビルと、住宅街。夜の光ほどの主張もなく、悠然とした佇まいである。毎日一瞬で通り過ぎる街並みにも知らないうちのドラマがたくさんあるに違いない。

夜景も多摩川のへりも、引いた視点だからこその美しさである。ごちゃごちゃを遠くからコラージュのように眺めて、美しいだ綺麗だと呟く。
きっと、沼島の朝焼けはどこを切り取っても綺麗だったろう。人の営みの関与しない美しさは、コラージュではない。悲喜交々が介入しない。イデアみたいなものだ。

まだしばらく晴れの日は続く。放射冷却の恩恵を受けて、素敵な冬日が続く。コラージュのワンカットとしての、冬日を続ける。