徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

四十九日を終えて

祖母の四十九日が本日執り行われた。つつがなく、穏やかに、三途の川を渡っていったと信じている。

お坊さんのお経に手を引かれて、祖母は三途の川を渡ったイメージを勝手にしていた。南無阿弥陀仏がずーっと繰り返し繰り返し響き、エコーのような音波のような圧力を感じた。祖母の手を引くのがお経の調べなのであれば、三途を渡る船を動かしているのは念仏の立てるさざなみなのだなぁと感じた。

 

前回の帰省の段階では不自由だらけでも元気に生きていた人間が、年相応とはいえ亡くなり、次の帰省では小さい箱と額縁の中の存在になっているというのはなかなか信じがたいことだ。亡くなった段階でも現実感がなかったが、改めて、信じがたい事だった。

逆説的な話だが、存在がなくなってからこそ人はどこにでも存在できる。そんな考え方もある。かの有名な千の風になってがまさにそれだ。お墓の前に私は居ない。死んでなんかいない。千の風になって、大きな空を、あなたの傍を、吹き渡っています。

肉体が滅びた後、残された人たちは写真に故人の魂を託す。身内の集まりには持っていくし、何気なく話しかけるのも写真に向かってだ。ある意味で肉体に縛れていた人間が残されたものたちの解釈一つで、風にも花にもなれてしまう。写真に宿って、どこにでも行けてしまう。

死んだ後の実際は誰も知らない。だから無になるか生まれ変わるか、千の風になっているのか写真の中に居るのかも分からない。自分が死んだときに始めて分かるわけだ。調べたってぐるナビみたいな死後レビューサイトが転がっているわけじゃない。

だからせめて生きているうちは死んでいく人がどうなるのか、盛大にわがままに想像を働かせていたい。極楽浄土が広がっているならば、現世が辛いものならば、せめて勝手に考えさせて欲しいものだ。勝手に身近に居るものだと信じさせて欲しいものだ。