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徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

心に「響いた」って表現が全く心に響かない

「響いた」っていう言葉が好きではないかもしれない。あんまりこれまで意識してこなかったけれども、「響いた」嫌い人間かもしれない。

鐘が「響いた」ならわかる。鳴り「響いた」のもわかる。心に「響いた」ってなんよ。『心に「響いた」幾つかの言葉』ってワットハップン。

ニュアンスはわかる。十分汲み取れる。あの、感動とも感激とも取れるじーんって感じ。あれを世間一般広く「響いた」というのであろう。「染みる」とも言うなぁ。


「ヤバい」を多用する若者がヤバいって話でもよく出てくる、あらゆる事象を「ヤバい」で表現してしまうことに対する危惧。あれに近いヤバさを「響いた」には感じずにはいられない。「響いた」って言っておけばなんとかなるだろ的甘え。それが表現の幅を猛烈に乏しくさせているのだ。あぁ、違いない。

「響いた」には何一つ具体性がない。読書感想文で面白かったですって書いちゃうくらいのぼやーっとした心情だ。「響いた」に目くじらを立てずに、食レポしてるアナウンサーとかがよくやる「ん〜〜〜!」という恍惚のハミングばかりを責めるのはお門違いもいいところだ。


だから、ラインのスタンプにも僕は頑なに迎合しない姿勢を貫いている。あんな高尚な落書きにこの複雑かつ繊細なビューティフルマインドを表されてたまるかと。甘えである。絵文字にも、顔文字にも、負けない。(笑)もできる限り使わない。文章のみが、言葉のみが、自分の心情を他人に十全に伝えられる唯一無二のツールだと頑なに信じている。ハイもローも文章だけで伝えたい。セルフ縛りプレイだ。


「響いた」を多用する諸君。君の心の中の構造がどれだけ知恵の輪のような入り組み方をしていたって、「響いた」の一言の所為で傍目からはサランラップの芯もいいところの単純な心の持ち主だと思われている。少なくとも、僕はそう思う。

この文章が、これまで「響いた」を多用していた人の心に響けば…

あ。