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徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

人間関係を思う

これまで数限りない悪口を浴びせられてきた。比較的順風が吹き、パタパタと帆をなびかせてきた人生ではあると思うがしかし、舐めるべき苦渋を舐めてきた気がするなんていう、後付け的ポジティブも多々ある。瞬間を切り取るとものすごく辛い毎日もあったし、罵声に塗れる日々もあった。「キモい」が代名詞だったこともあった。「呪い」をかけられて誰も近づいて来なくなったこともあった。よくわからない敵意をむき出しにされて性根を否定されたこともある。同じ人生をもう一度なぞれたとしても断るだろう。ピンポイントの苦しみをまた受けるのは御免だ。たとえどんなに糧になったとしても。

森見登美彦の「四畳半神話体系」をいつだったか読んだ。僕らはどんなパラレルワールドに行ったって同じような人生を送る。同じような人と出会い、同じように失敗をする。大学生活という怠惰の沼にズブズブになりがちな時期をもって、その業の深さを描き切ったあの作品は一読すべきだと思う。しかし救いのない話だ。現世にも輪廻にも同じような自分しかいないのなら、その自分を否定された日には一連托生であらゆる自分が否定されることとなる。強酸性の辛酸だとしても喉元を過ぎれば熱さも忘れよう。だが飲み込み中は業火に焼かれるかのような苦痛を感じる。たまったもんじゃない。


少なくとも僕は、これまでの人生を加味した上で、苦痛の少ない道を選びたいと考えているらしい。パラレルワールドを考えた時も、やり直しの人生を考えた時も、真っ先に思い当たるのは幸福の反芻ではなく苦痛の想起だ。ひたすらにそいつを繰り返したくないから、僕は人生をやり直したくない。保守的なのだろう。ハイリスクハイリターンは真っ平なのだ。誰もが羨む大成功よりも、誰かの心ない一言がいつまでも禍根を残す。なんとなくそういう察しがついている。

自分がそうだからか、他人に対しても自分の存在がなるたけなるたけ邪魔にならないように生きていたいと思う。わずかな人間に大喜びを提供するが、その他大勢から非難を轟々と浴びるより、自分という人間に関わる大半の人たちにとって、自分が好き嫌いゲージの凡そニュートラルあたりに分布していてくれればいい。薬にもならなければ毒にもならない。若干薬よりの人や若干毒よりの人がいるくらいがいい。


だが現実はそう甘くはない。好きに嫌いに好かれに嫌われ。僕ら人間の相関図にはいろいろな線が引かれている。

できることなら、全部が役作りであってほしい。仕事上の軋轢、人間関係上の軋轢は、全て「役」として僕らが演じている事で、本当は毒も薬もない人間同士であってほしい。

精一杯生きている人の感情は恐ろしいものだ。何一つ演じていないむき出しの感情には衒いもなければオブラートもない。そういう言葉こそ人を傷つける。僕は傷つく。

大人になってまで良くも悪くも天真爛漫な彼ら彼女らにとっては、その態度こそが処世術なのだろう。思ったことを思った時に言って、それで嫌われたって知ったこっちゃないって生き方は、強そうに見えて実はすごく弱い。嫌われる相手のことを考えていない。嫌われるより嫌う方がどれだけエネルギーがいることか。ちょっとでも想像してほしいものである。


ほんの少しの思いやりが世界を救うとはよく言ったものである。それは募金や物資の目に見えるものの類に限ったことではない。本当の気持ちの面で自分を知り、相手を思いやる力を誰もが持てたなら、生きにくさを抱える人々がどれだけ減少するだろうか。生きにくさによって人生を儚む人がどれだけいるだろうか。


幸い、今僕の周りには感情むき出し人間はいない。良識があり、役割に則った接し方をする人ばかりである。だから楽しく生きていけているし、順風が…なんて言葉も出てくる。

でもこればかりは、いつ生きにくさと衝突するかわからない。対外的な生きにくさはどうにもこうにも選べやしない。

出会わないことを祈りつつ、自身がそうならないよう、懐深く人畜無害に生きていこう。そう決意した4月吉日。きっかけは特にない。