徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

お金があれば

僕はお金に心から困ったことがない。本当の本当にすっからかんになったことが、なんだかんだない。大学時代に口座があと1000円まで追い込まれたことがあったが、食べるものに困るような根源的な困窮はしなかった。口座にお金がなくても、食べ物は冷蔵庫と箪笥になにかしらあった。

でも、お金が十分足りていると思ったことも同じようにない。実家もごくごく一般家庭だし、流されるように僕も一般一人暮らしを営んでいる。欲しいものが都合よく手に入ることなんてそうそうなかった。中流も中流。可もなく不可もなしの家庭に育ったのだった。いざ世帯主となり、自らの稼いだお金で自らの生活を成り立たせていこうとすると、何しろお金が回って行かなくなる。

貯金をしている。月に数万ずつ別口座に振り込み、その口座には手を付けない自分ルールを設けている。これが困窮の原因である。飲み会等々付き合いのエトセトラに使用する分、休日に何もしないのは嫌だから訳も分からず外食をする分、光熱費に通信費に云々…家計簿をつけるようなマメマメしい正確に生まれなかったため、どんぶり勘定で毎月給料日を迎えている。

貯金額を減らす英断を行う必要もあるだろう。ほぼ出費のない月に多めに振り込み、だらだらに出血した月には控えめに振り込む。すると、月初の振込ではなく、月末の振込になるわけで、何が問題になるかというと使い切る・残らないなんてふしだらなマネージメントが勃発する可能性だってある。貯金をしないというのはなかなかに不安を誘発する。別に何に使うも決まっていないお金だが、中流に生きてきた故、何をするにもお金が必要であることはよく知っている。あればなんにでも使える。だからいつかの建設的大出費のために取っておく。

たまにレクサスの販売価格とかを見て、口座のお金とのスケールの違いに切なくなる。僕がどんなにバク転してもカツアゲされても払えない額。この社会人レールをどれだけ進んだらそれだけのお金を手に入れる日が来るのだろうか。家があり、車がある。北海道のいたって普通の生活は、実はものすごく富めていたのかもしれない。