徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

午前三時の小言

我々サラリーマンというのは、この上なく守られていると言っていい。大企業であればあるほどその庇護は大きくなり、国家に従事している公務員は庇護の極致にある。大企業はなぜこうまでして雇用者を守るのかといえば、雇用者を扶養する責任があるからだ。企業という名を借りた法人とかいう人は、僕ら庶民を養わなければならない義務がある。だから、僕らの労働力の代わりにお金を恵んでくれる。

大企業になればなるほど雇用者が多いのは自明のことである。雇用者が多いのは大企業の証明でもある。しかし逆説的に、人間一人にかかるウエイトが圧倒的に軽くなる。替えの効かない誰かはまずおらず、なんやかんやいなくなったらそれなりに替えが効く個人でしかない。我々サラリーマンの特性だ。僕たちはそれをわかって仕事をしている。替えのきく個人だとわかって働いている。僕らの頑張りがどれほど会社の役に立っているかもわからなければ、僕らの失敗がどれほど会社の迷惑になっているかもわからない。いい意味でも悪い意味でも歯車なのである。

自営業はそうはいかない。自分の頑張りがすなわちお金であり、価値になる。そこには余裕もなければ、怠慢もない。日々の売り上げ、それこそが生活なのだ。

ひとえに、切実さが違う。どうしたってひっくり返らないだけの切実さが自営業にはある。大企業が温室であれば、自営業はサバンナだ。まして従業員がいたとすれば、彼ら彼女らの家計すらも自分の責任になる。温室を作らねばならないのだ。温室の外はサバンナなのである。

経営層にならなければ、僕らサラリーマンはずっとサバンナを知ることはない。温室の中だけで一生を終えることとなる。自分の価値は企業が決め、死なない程度のお金をもらい、一喜一憂しながら生活には困らない一生だ。

立派だと思う。何十年も企業に勤めるのは本当に立派だと思う。1つの企業であれ、いくつもの企業をはしごするのであれ、それは生きる道である。でも、温室の出来レースを繰り返しているだけでは、働かせる側としてはどうやったって割に合わないのも事実だろう。稼げない現状と、お金を要求する雇用者。共に生活があるから、上手い妥協点を探して着地するのが見えている。雇用される側もする側も、なんとなく示し合わせたようにお金の均衡点を決め、そこで妥結するのだ。ある種のお遊戯である。お遊戯おままごとをそれと分かった人間が、それと知って一生懸命働くのが社会だ。それと知って数字を作れるのが所謂できる人間だ。そういう者が出世していくらしい。

自社への帰属意識が高ければ高いほど重宝がられると思いきや、ある程度ドライじゃないとやっていけない面もあるサラリーマン。それでいて成功の一番の決め手は人間関係なんてのたまうからふざけんじゃねえなんて思う。

午前三時の小言は遥かに日中よりも中二の病に罹患している。どうにもならない。時間が時間だから。

 

深夜特急〈1〉香港・マカオ (新潮文庫)

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