徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ウォークマンをどうやら失くしたらしい

一週間くらい出逢っていない。愛しのブラックウォークマン。必死血眼で探したわけではないが、あるべきところにはなく、あとはどう考えても置くはずのない棚とか洗濯機の隙間とかを調べるのみとなった。きっと失くしたのだと思う。とても悲しい。

きっと見つけてあげようとは思っている。なにしろ大事な大事な僕という人間を司る家電である。ウォークマンの中の曲たちはすなわち僕自身であり、ある種ポートレートを見るよりも余程僕という人間のエッセンスが詰まっている。

移動中に主に聴いてきた。電車の中で、駅までの間、音楽は共にあった。新しいアルバムを仕入れては、聴きまわしてたくさんの曲を浅く広く覚えた。どの年代の人とカラオケに行ってもそこそこ楽しめる原動力はウォークマンであった。しかし、一週間彼と離れている。自分から選んだ音のない世界にやってきている。

ウォークマンという、フェイバリットな音楽を流す機械から離れてみて。やっぱり、現代人は自分の好きなものばかりを周りに置きすぎていると感じる。ツイッターで情報収集をして、フェイスブックで友達の動向を知って、耳元ではウォークマンが流れる。目も耳も自分の好きなもの、自分の選択した情報しか仕入れてこない。これでは多分退廃するだろう。収集能力も、嫌いなものへの耐性も。

ちょっとくらいの辛さで投げ出す人間が増えているらしい。「ゆとりですがなにか」なるドラマが放映されていて、僕はそれをちらりとも見たことがないのだが、多分飽き性で忍耐できない人間とかもゆとりとして描かれているのだろう。

だがたぶんそれはゆとり教育の賜物ではない。現代社会の副産物だ。

脚の代わりに車を生み出したように、技術の進歩は楽と便利を追求する人間の欲である。快適な環境の究極は自分の好きなものしか周りにない環境である。少なくとも、電車の中の若者中年連中は限りなく究極に近い環境にいる。

 

昨日、音楽に気を捉われない散歩をしたのだが、紙縒りのように考えがするするするーっと収束していく感覚を得られた。別に使おうとも思っていないのに脳みそが動いていく感覚。久々のそれだった。音楽を日常から手放したら、退化していた何かを目覚めさせられるかもしれない。

すこし、ウォークマンには隠れていてもらおうかなと思う。