徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

括りたい

数学苦手少年だったが、因数分解の頁で複雑怪奇な数式がx(ax^n+bx^m)(cy^s-dy^t)みたいな形に括れたとき、気持ち良さを感じたことを今でもよく覚えている。四方八方どこから見たってこんがらがった糸が一本に解れて行くような、ナイスな快感であった。

 

あの頃テストで出くわし続けた、括る行為は、ともすれば人類が生来持ち合わせている傾向なのではなかろうか。

例えばこんな1日があったとする。

朝の星座占いで12位を取る。通勤途中にガムを踏む。電車の中で言われもない舌打ちを受ける。会社で顧客からクレームが入る。言わずもがな自分のミスであり、上司から懇々と叱られる。不意に取り上げた電話がややこしい。帰りの電車で目の前の酔っ払いが猛烈にふらついている。帰り道スーパーに寄ったらいつもの安い牛乳がない。家に着いたら買い忘れに気づく。

1日の流れの中で、なんとなくツイてないことを列挙した。僕たちはこの日を上手く行かない日として括る。そして誰のせいにもできない虚しさを、12位を取った星座占いあたりになすりつける。ツイていない出来事をツイてない1日とまとめることで、ツイていないことに整合性を持たせる。意味を持たせる。

そう、それこそ星座も同じだ。

どう見てもバラバラと輝く星たちを、うまく結びつけて括って絵にしていく。形に見合った物語をこしらえて、空に投げる。星々がその位置に見える意味を持たせるのである。

こうやって僕らが文字を読めているのも、漢字をパーツごとではなく、全体として括っているからで、単語を括り、文章を括っているからに他ならない。

 

まとめと括りで世の中ができているのは、きっと僕が因数分解をしたときに感じたあの昂りによるものだ。大先祖が連綿と昂る行為を繰り返し、今の僕らの世界がある。括り方がわからない文化は、全く理解ができない。アラビア文字がミミズにしか見えないのはその所為だろう。あらかた体系化された社会に生まれ落ちた僕たちが、括りを取っ払うことは不可能に近い。当たり前のように括られているもの達の上、括りたい志望もあるのだ。どうしょうもない。

不意に今日数学のセンター試験の問題を見る機会があったが、ほどほどちんぷんかんぷんだった。もう僕は因数を括れなくなっていた。