徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ケンブリッジ飛鳥が野球中継に出ていて思ったこと

不意に野球中継を見ていたら、ゲストにケンブリッジ飛鳥が出ていた。ケンブリッジ飛鳥。なんとも格好のいい単語を二つ合わせたスタイリッシュな名前を冠されている彼は、スタイリッシュな走りでこの度100mの日本チャンピオンになった男だ。勝った山縣より負けた桐生。不自然なほど桐生に流されがちな世論を引き戻してきたのはケンブリッジだった。

巨人対中日。広島が阿呆みたいな強さでセリーグを席巻している中、どうあがけど首位が遠すぎる、切なくも熾烈な2位争いをする2チームである。ケンブリッジは、巨人のファンという体で出てきた。日本テレビである。4チャンネルである。どんなに心では鹿島アントラーズを応援していても読売巨人軍のファンとしてじゃなければ出演できない魔界。ケンブリッジの巨人ファン度は甚だわからないが、ノコノコと、いや、語弊があった、猛ダッシュも辞さない構えでやってきたケンブリッジ。始球式も華麗こなしたケンブリッジ

彼の私生活を僕は全く知らない。隣の大学で同じ陸上競技に勤しんだものの、大きい大会で勇猛果敢に全力疾走をしているところを見たくらいの思い出しかない。一番プライベートなケンブリッジを見たのがグラウンドにて上半身裸で猛烈にトレーニングをしていたところだったが、あぁ、ケンブリッジだ…って遠目に見たくらいだ。彼は高校時代から陸上界では知らない人がいないレベルの有名人だったために存在はばっちり確認していたが、話もしたことなければ目もあったことがない。

彼はどういった性格の人間なのだろうか。どうなのだろう。少なくとも、中継を聴いている限り、彼は寡黙な印象を受けた。多くを語らない。多分、それはスポーツマンとして一つのあるべき姿だろうと思う。マイクパフォーマンスで楽しませる人も人気が出るが、確かな実力の元に実直に寡黙に競技に打ち込む姿を見せる人もまた、人気が出る。比較的前者は対人のスポーツに多く、後者はタイムを追う競技に多いように感じる。高校の頃、顧問に嫌というほど自分の言動に責任を持つように教え込まれた。あれはきっとうちの高校が厳しかったのではなく、陸上界全体を覆う風潮なのだろう。例によって、ケンブリッジも実直なコメントを残していた。それは一方ではささくれ立たないが、一方では面白みに欠けるとも言われるだろうものだった。

僕は、それはそれで構わないと思った。野球中継に陸上の日本チャンピオンを招くというまずまずのミスマッチを受け入れながら、ケンブリッジのあの対応は素晴らしいものだったと思う。ただ、実況アナウンサーの佇まい、ケンブリッジへの話の振り方に少し居心地の悪さを覚えた。東京ドームの大観衆とリオ五輪の舞台を執拗に関係付けたがり、盗塁や走塁の度に走る技術について語らせたがるその話しぶり。確かに、番組的にはリオが決まった選手を招いているのだからリオについての抱負と雄弁に語ってほしかったのだろう。しかしそれは無理だ。陸上界の風土がそれをさせない。ビッグマウスを噤ませる。アナウンサーも感じ取っただろう。これ以上はきっとケンブリッジはリオについての多くは語らないなと。何故もっと話を他の方面に振らなかったのだろう。そして振ったところがどうして走塁技術だったのだろう。ケンブリッジも大層話しづらかったのではないか。リスナーからしたら、解説の桑田さんの、知的好奇心に任せたケンブリッジへの質問だけが安息の地だった。それ以外は何とも言えないざわざわした感覚を感じ続けていた。

ゲストの存在を消さないように持ち上げながら野球を実況するのは非常に難しいに違いない。想像に難くないし、想像をも絶する難しさなのだろう。でも、もう少し、ゲストの人間性に対する、ある種の敬意のようなものがあってもいいのではないかと思った。あなたのことを知りたいという気持ち、あなたのことを害さないという姿勢。質問攻めにするのではなく、感想求め攻めをするのでもない、空気を読みながらお話を回していく敬意が。

オリンピックを報道する強大な民放というド級の営利組織だからこそ、ケンブリッジの人間性にもっとフォーカスすることができなかったのだろうか。なんとも歯がゆい野球中継であった。