徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

シン・ゴジラを観た感想

今週のお題「映画の夏」

ベイマックス以来の映画館での映画鑑賞。

シン・ゴジラ

www.shin-godzilla.jp

 

ゴジラシリーズを特集した本が家にあって、知識としてゴジラのエトセトラを知ってはいたが、ゴジラ映画自体は見たことはなかった。映画への見識も豊富ではないけれども、何を感じたか、書いておきたいと思う。

 

日本終わった感

ゴジラは何事無く冒頭から姿を現す。平穏な日常を映す描写はない。のっけから異常事態の渦に巻き込まれる。各大臣、識者、閣僚は慌てながらも会議を開き、資料作りや文書に縛られることにイラつきと焦りを覚えながら各々職務を全うする。それをあざ笑うかのようにゴジラは海に川に陸に街に進出し、日常をどんどんと遥か彼方に葬り去る。中盤にてゴジラはお得意の放射線ビームを都心で巻き散らかし、総理を含む日本の中核が乗機しているヘリを木端微塵にするなど、駆逐を極める。核分裂がエネルギー源だと言うゴジラの、全精力を尽くした砲撃により東京の街が火の海になるのだが、その描写に置いての日本終わった感が凄まじい。東日本大震災が発生した当日、石巻の街が火の海になっているのを自衛隊が空撮したあの映像を彷彿とさせられた。「シン・ゴジラ」における絶望感を助長するのが、関係各省・巨災対(巨大未確認生物災害対策本部?→巨大不明生物特設災害対策本部)が一睡もしないでゴジラ対策を講じ、会議に次ぐ会議、判断に次ぐ判断をしているのが見える点だ。東日本大震災の時、当時の枝野官房長官が獅子奮迅の会見ラッシュをしていたのをよく覚えている。あの裏側を再現したかのような描写。「シン・ゴジラ」が有事の際の日本の動きをどこまで再現していたのかはわからないが、日本のフルパワーを垣間見ていながら、どうすることもできずに火の海になっていく東京を見るのがただただ恐ろしかった。露骨に建物を壊すでもなく、「歩く」「しっぽを振る」の2動作だけで町を破壊し、自衛隊とアメリカ軍のミサイルに呼応するかのように放射線ビームをぶっ放す。悪意があるわけでもない暴虐武人加減に震えた。

 

日本捨てたもんじゃない感

 

先述のとおり、作中で日本は全力をもってゴジラに対処する。総理大臣をトップとした日本を動かしていく組織が、それぞれ得意分野について調べつくし、不確かを不確かと伝え、つまびらかに情報を開示したうえで、組織のトップが判断を下す。ゴジラ初登場から一時退却までのパニック状態の中だと、会議の多さと法律のがんじがらめにやきもきするのだが、ゴジラ一時退却中の動きや巨災対編成後の動きを見ていると、その組織的な動きのスタイリッシュなこととスピード感に驚く。ぬるぬるとゆっくり動いているようで、確実に歩みを進めてゴジラ対策を講じていく政府の力量に感嘆した。やはり、首長にある程度の見識があるのは大変重要だが、何よりブレーンがどれだけ働くかが重要であるらしい。あらゆるタスクが同時進行され、ゴジラに向かって堀を埋めていくプロセスはサラリーマンとしても大変参考になる部分であった。価値判断をするのが監督者の役目であり、価値判断する材料を集め、判断を十全に推し進めるのが部下の役目。体系がしっかりしている組織は強い。「日本」でそれを感じられたのは嬉しいことだった。少なくとも作中では、優秀なブレーンがおり、たとえ何を言われようと自らの判断を下すことのできるリーダーがいた。日本捨てたもんじゃない。

 

最大幸福の維持こそが政治

 

物語の終盤、長谷川博己演じる主人公の矢口蘭堂が率いる巨災対によってゴジラのエネルギー源が突き止められる。裏を返せば、ゴジラのエネルギーをストップさせる手段が突き止められる。(それがどういった仕組みで、何をゴジラに注入すればゴジラがストップするのかは忘れた。難しいお話だった。)机上ではゴジラストップに光明が見え、すかさず関係各所にゴジラストップ薬剤の生成を依頼する巨災対。一方では国連安保理が「世界の危機ですので。」ということで、ゴジラに核ミサイルをぶち込んで消し去る計画を立案、可決。日本の総理代理のOK待ちという段階まで差し迫ってくる。ゴジラストップ薬剤注入作戦(作中では矢口プラン改めヤシオリ作戦)か、東京に日本史上兼世界史上三発目の核ミサイル投下か。結果として、ヤシオリ作戦を遂行することに成功するのだが、核が喉元に迫り、一分一秒も待てない状況下で竹ノ内豊扮する官房長官代理の赤坂が矢口を説得する。ゴジラ後の世界を考えた時に、核を打ってもらって確実にゴジラを消し、世界から同情を買った方が良い。復興への足掛かりを作るためにも、今は苦渋をなめる時だ。」これこそ政治なのだろう。都民の避難が間に合わなかったら、それもやむなし。凄い話である。一時期マイケルサンデル氏が流行ったころ、何かの番組で行われていた哲学講義の中で、「電車がそのまま走っていけば5人を確実に轢くが、目の前の路線入れ替えスイッチを押せば一人を確実に轢く場合、スイッチを押すか否か」という問いがなされていたのを覚えている。もっともらしい理由をつけて、苦汁をなめるものにも理解を得ながらのらくらと自らの正義・公共の幸福へと進んでいく。場合によっては、線路を切り替えて一人を殺しにかかることもやむを得ない。政治の神髄を見た気がする。

 

ビルは鉄槌、電車はミサイル

 

観りゃわかるのだが、都心に集中しているインフラはゴジラを駆除するための武器であった。めちゃくちゃである。作中ではヤシオリ作戦の全貌を明らかにされないまま作戦決行されるため、作戦内容の奇抜さに度肝を抜かれる。使えるものは全部使え。くそみそミサイル。ド派手な爆破シーンが続いた最後、ゴジラにとどめを刺すのが薬剤の経口投与というのもなんとも面白かった。

 

まとめとして 

 

絶望と歓喜、現実と虚構、シリアスとコメディ。シン・ゴジラ」は、様々な二律構造をうまく中和させ、多面的なドラマを構築していたように感じる。多分、ゴジラvs怪獣シリーズのファンにとっては、「本当のゴジラとは論」が浮上してしまうような内容であるのだろう。ゴジラに何を求めているかできっと見方が大きく変わる映画なのだ。「シン・ゴジラ」は。ゴジラシリーズへの含蓄もほぼ無く、映画への思い入れもそぞろで、一つのエンターテイメント作品として観に行った姿勢が良かったのかも知れない。非常に楽しく観賞できた。携帯の電源を落として、隔離された空間で一つの物事に没頭する・没頭させられる行為がどれだけ気持ちいいことか。

 

シン・ゴジラ

いい投資をしたと思います。

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