徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

昨日誕生日でした

15の夜に僕は何をしていただろうか。バイクを盗んで帳の中に飛び込むだけのバイタリティとルサンチマンは当時の僕にはなかった。15の僕に手紙を書いてみようとするも、負けそうで泣きそうで消えてしまいそうな僕はどこにもいなかった。もっと能天気極まりないあんぽんたんフィフティーンだった。

高校三年生では瓶底メガネを身につけながら学び舎と学友に別れを惜しむ青春を飾るはずが、

ハタチにはフリソデーションしたかったのだが、おたまじゃくしが卵に突入した時から遺伝子に刻まれてしまっているY染色体がフリソデーションの邪魔をした。ハカマリオネットにもなれず、セビロールプレイングを1人寂しく行った。

22歳では17歳から一緒に火をつけ続けた恋人と別れる予定でいたのだが、鏡に映った貴方を探しきれずに終わった。

あらゆる通過点で、歌謡曲フォークソング、J-POPの歌詞になりそうなドラマチックチャンスを逃し続けたまま、昨日、僕は24歳になった。


社会に出ている現状、年齢ダブルスコアの上司同僚と共に働いているわけで、自らの若輩加減にコンプレックスを抱く日々だ。ビーマイベイベー。さっさと年を取りたい気もするのだが、まだまだ若いままでいたい気持ちもとてもある。倍生きても上司の年齢なのだ。なんだってやれる気がする。

僕たちは遥かな歴史の上に生きている。4000年前の中国。2000年前のエルサレム。思想は現代を川下にして流れ続けているし、天動説から地動説への転換や、進化論、大陸移動説に代表されるような宇宙と地球と生き物の基本となり得る学説が暴かれた世界が現代だ。僕らがウン千年前に生まれていたら絶対に解き明かすことができなかったであろう事象を全て知った状態で生きている。

それは親や、上司、先輩に始まるミクロな関係にも言えることで、彼ら彼女らの失敗や学びを全て自らの糧にして生きていき、彼ら彼女らの到達点よりもずっと先に行くことを僕らは求められている。そして後世にも自分の学びを糧にさせて、自分の到達点よりもさらに上、さらに上と、屍を超えて行かせる必要がある。

案ずるも産むも易くはない世の中。せめて志だけ、ファイティングポーズだけは立派にとっていきたい。先日ボクササイズをやった友人が、3分間サンドバッグを叩き続けることがどれだけしんどいかを訥々と説いてくれた。戦う姿勢をとるだけでも苦しいのだと、教えてくれた。この24歳を契機に、姿勢だけは作っていこうと思う次第である。