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徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

得意なことと好きなこと、どちらを仕事にするべきか

形としては、就活を勝ち抜いて今の会社に入った。お仕事を探すのが就職活動の本来の目的なのだが、副産物として「大人の考え」なんていう漠然としたものを少しだけ学ぶことができるのが、大きなメリットのような気がする。漠然と感じた「大人の考え」なるものは、企業としての成長こそ、営利こそすべてであるということである。企業殿が求めるテトリスの形状であることを存分に伝えなければ企業は自分に価値を見出してはくれない。
一方で、努力できる人間を欲しがる傾向にある。ほぼ同等の能力値を持った二人のうち、どちらかを選ばねばならないとすれば、怠惰な人間よりも勤勉な人間を選択する理屈。この、「勤勉」。すなわち「頑張り・真面目」である。学生たちは何を頑張ってきたのかを雄弁に語るのだが、「学生時代の頑張り方・頑張ってきた対象」で頑張り人間と受け取られるか否かが大きく変わってくる。
A君とB君が100の頑張りを持っていたとする。A君は100のうち全てを、つまようじの窪んでいるところを折り続けて収集することに使い、B君は100のうち70を部活とかに捧げた。A君とB君の間には30の努力の差があるのに、B君の頑張った部活のほうがずっと努力が伝わりやすい。30の差をいとも簡単に詰められ、追い越されてしまう。つまり、僕たちは自らの興味・関心・得手・不得手を元に、何らかの努力をしているのだが、上記の動機が世の中から見てふさわしいか、受け入れ易いか、そのあたりで大きく努力の受け取られ方が変わってきてしまうのである。
でもA君にこんな事情があったらどうだろうか。

彼がつまようじの窪んでいるところを折って先っぽを集めていたのは、彼の実家が林業を営んでおり、木材の浪費にのっぴきならない憤慨を募らせていたためで、つまようじの機能を残したまま木の資源をリサイクルすると1本あたり0.01円分ペイバックされると知ったA君はたくさんつまようじの先っぽを集めまくり、そのお金を元手につまようじ業界の根本を変える動きをし、より無駄のないつまようじの先っぽを持ったつまようじの製作に成功した。

とってつけてでもストーリーがあれば、ただのつまようじの先っぽ収集男が、なんとなく有能なビジネスマンの卵に見えなくもなくなってくる。そう、哲学である。どの程度の哲学性を頑張りに付帯できるか。これが、世間にすでに受け入れられている価値を追随する以外の認められ方をする一つの方法なのだろう。

「大人の考え」を自己の中で体系化してからずっと、商売としての勝算がどれだけあるか、世の中からどれだけ認められているかを考えている。好きよりも得意で勝負しなければならないと言い聞かせてもいる。だからものすごく保守的である。夢を追うとかってハイリスク未知リターンのギャンブルをするなんてできない。石橋を叩いて叩いて壊して、ほーら危なかった!って言っちゃうくらいの保守。端的に言えばビビりだ。

得意に根ざした仕事で慎重に生きていく人と、好きに根ざした仕事でなんとか営利を求めて生きていく人だと、安定や認められやすさは前者の方が大きいが、魅力という一点においては後者がものすごく大きい。自分のやりたいことで全力勝負をし続けている、危ない橋を何度も渡った人の生き様は心より魅力的である。語れることも多い。

得意と認められやすさに対する努力こそ正義と考えるのは、少し見識が狭すぎるかなぁと、ここのところ思う。一度きりの人生だからこそやりたいことをやろう。なんてそこまでは思わないが、何か一つ真剣に哲学を持ってチャンスあらば仕事にしてしまいたいことを一つ二つ持っているのは必要なのだろう。

 

実家に帰ってきており、同僚以外の様々な生き方をしている人と会う中で考えたエトセトラであった。正解なんてないのだろうと思う。