徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

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喉が無限であれば

喉が無限であれば。一体どれだけの歌を歌うことができるだろうか。好きな曲、なんとなく気になる曲。全部歌いたいのに、喉は疲れる。有限であり、消耗品である。

カラオケで曲を入れる番が回って来た時、老若男女様々なアーティストが頭に浮かぶ。歌いたい歌手。曲を知ってる歌手。色々様々逡巡して、前入れた人の流れを踏襲した曲を入れてしまう。不本意ではない。新しい引き出しを開けてくれてありがとうの意も込めたい。しかし、本当に歌いたい曲を歌えているのかというと、それも違う気がする。なんだ、とにかく全部歌いたいのだ。人に引火された曲も、自分の奥底に眠っている曲も。喉が消耗品であるからこそ、ペース配分をする自分がいる。いつも歌っている曲。歌えなくもなさそうな曲。前後関係から唐突に歌いたくなった曲。不確定要素が渦巻くカラオケの密室空間で、僕はデンモクを片手に悩み、履歴を見ては知っているアーティストを探し、前の人の歌ぎりぎりまで悩んだ挙句に本心から幾星霜も距離のある歌を入れてしまったりするのである。カラオケの中の時が進まなければ、僕はどれだけの歌を歌っては止めを繰り返すことだろう。喉が無限であれば、僕はどれだけの歌を歌い続けることができるのだろう。叫びながら、声域の限界に何度も挑戦しながら。

昨日書いた記事である。例によって、酷使された喉は本日まずまずの痛みを持って喉の有限と生命の限界を教えてくれている。「この声が尽きるまで叫び続けるよ」的歌詞のJ-POPが散見されるが、声が尽きた時の苦しさ、翌日のしんどさを考えていないあたりやはり浅はかである。一方で、後先考えられなくなるほどに楽しかったり、もどかしかったり、嬉しかったりすることがあるのも事実。実に世の中は難しい。

無茶は禁物だ。