徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

口調が軽くて適当に喋っていると言われる

実に不本意ながら、僕は現在、先輩諸君に適当に喋ってる人間だと思われがちらしい。原因が、口調が軽いからである。

確かに、わからないでもない節はある。口調が軽いというのは、声色の高さに寄るところが大きいだろう。努めて、僕は声色を二段階くらい上げて生きている。これはなるたけ周りの人を暗い気持ちにさせないようにするための、ささやかなる心遣いである。ダンディないい声だと、低い声でも味を出せるのだろうが、僕のようなゲスゲロボイスだと本当に気分が悪いのか、嫌なことがあったのか、その辺りのネガティヴ諸々に捉えられがちだ。だからこそ、努めて明るく。努めて朗らかに。

声色に加わるのが、語調である。知り合いに伊藤のおじちゃんという人がいた。もう他界したのだが、彼のしゃべり口はそれは魅力的だった。立て板に水のような濁流ではなく、春の小川くらいの緩やかな流れで、スルスルと絶え間なく喋った。あのリズムを真似ようと日々研鑽を積み、調子がいい時には思った通りの抑揚で話せている実感もあるのだが、この、調子がいい時の語調を指摘される。軽いと。適当だと。

いやいや、そうではない。僕は最大限の努力をした上で、最大限に皆様の耳元に心地いい音像を届けようと、この語り口とこの声色なのである。ゲスゲロボイスをハイトーンと抑揚に隠しながら生きているのである。一所懸命に練習した課題曲が、コンクール当日に違う曲だったとわかった時のような、なんとも言えない虚しさを感じている。

ありがた迷惑を、この歳になって学びました。需要と供給を一致させられるよう、改めて日々研鑽を積む所存。