「これはもう、梅酒というより、チョーヤです。」
最近街中でよく見るコピーである。チョーヤの新商品「The CHOYA」のコピーだ。一年熟成モデルと、三年熟成モデルがあるらしく、どちらも何やら高級そうな瓶にパッケージされている。
日々日本語を撒き散らかしているわけで、例に漏れずコピーも電車でぼーっとしている間に読んだりする。真剣には読まないが。大抵のコピーはつるっと読めるのだが、この、
「これはもう、梅酒というより、チョーヤです。」
に関しては、少し考えてみる必要があると思った。
梅酒というより、チョーヤ。
この文法が強烈なのは、完全に集合という概念を蹴散らしているところにある。
中学時代、高校時代の数学を思い出して欲しい。論理学なるものを、どこかのタイミングで学んだはずだ。
仮に、男性の山田君がそこにいたとしよう。
「山田は男性である」
この文章には無理がない。山田は彼の趣味趣向がどうあれ、男性に違いない。LGBTの類で複雑な何かを抱えているやもしれないが、俯瞰してみたら男だ。
「男性は山田である」
この文章は間違いだ。男性は山田ではない。少なくとも、僕は山田ではない。他の男性諸君が山田だったとしても、僕がいる限りこの文章は正にはならない。なぜなら、僕は山田ではないからだ。
なぜこういうことが起きるのかというと、「男性」の集合の中に「山田」が含まれているからだ。抗いようのない大きな括りである「男性」の前では、山田の個性など塵も等しい。
主語の大小関係からして、山田は男性だが、男性は山田ではない状況がいとも簡単に成立する。
これを、梅酒とチョーヤで再考してみる。
「チョーヤは梅酒である」
これは正しい。「さらりとした…」であったり、「うめほのり」であったり、「ウメッシュ」であったり。梅酒には数多くの商品があり、その中の一つに、「チョーヤ梅酒」が含まれているからだ。
すると、「梅酒はチョーヤである」という文章は、自然と間違いであることがわかる。
だが、そうじゃない。
「これはもう、梅酒というより、チョーヤです。」
梅酒というより、チョーヤです。
梅酒という巨大な主語。数多ある梅を漬けたお酒を指す巨大な主語に中指を立て、「チョーヤは梅酒である」状況に背を向けたチョーヤが選んだ道は、「チョーヤ」という巨大な主語を創り出す道であったのだ。
「これはもう、梅酒というより、チョーヤです。」
「これはもう、」の部分にも、ストーリーが溢れ出ている。飲んだ瞬間に、「あぁ、これはもう梅酒のジャンルには収まらないな。これは紛れもなくチョーヤだ。チョーヤでしかない。」こんな感想を抱くのだろう。梅酒にジャンルわけをしたい気持ちがあったにもかかわらず、そうできないほどにチョーヤがチョーヤ然として、梅酒の域から飛び出ていたに違いない。
さぞ美味しい梅酒…いや、さぞ美味しいチョーヤなのだろう。「The CHOYA」の傑作さを映し出しているコピーだ。
しかし今一度、男性と山田の関係に戻ってみよう。もし、人類の歴史がこのまま降っていき、そこそこな平和が続いたとする。そんな何十年、何百年後かの日本。遺伝子の摩訶不思議か、進化の最先端か、他の追随を許さないほどに完璧な男性・山田が登場したとする。何がどう凄いのか、筆舌に尽くせないほど、凄い男性・山田である。そんな山田が登場した時、人間はどう評するか。
「これはもう、男性というより、山田です。」
「The CHOYA」買ってみようと思います。