徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ひたすらに悔しい帰り道散文

我が大上司にやり込められることが多い。それは歴史からくるものなのか、頭の回転からくるものなのか、甚だわからないのだが、これがとても悔しい。自らの気の回らなさ、お金の産めなさを懇切丁寧に教えられているようで、酷く悔しい。こう、悔しいと思うところまでセットで見透かされていると思うと、それがまた悔しさに油を注ぐ。

こんなに悔しがりだったかと、改めて自分に驚く。陸上という、解りやすいかけっこを生業としていた頃すら、ここまで負けず嫌いじゃなかったと思う。と、今ふと思ったのだが、僕には陸上で何度も一緒に走った絶妙に勝てない相手っていうのがいなかったのだろう。勝てていた時期と、負け続けた時期が極端すぎて。まだ見ぬ速い人たちを漠然と追っていた期間と、誰にも全く敵わなくなった期間が、はっきりしすぎて。だがそれにしても、練習ででも競り負けた時に、これほどまでの悔しさを抱いたことがあったろうか。わからない。

悔しさは、負けたくない気持ちに起因する。少なくとも、今の悔しさは上司に負けたくない感情から来ている。

勝てると思っているから、負けると悔しいのだ。

絶対に勝てるし、絶対に勝ち得る相手だと信じている。過信だとしても、自分の能力に自信を持っているんだと思う。だからこんなにも悔しいのだ。そもそも、大上司だが、上には上がいる。大上司をやり込める存在もいるし、そのまた上もいる。切りがない。

こんなところで悔しがっている場合ではないのだ。ガスガス戦って行かなきゃならない。取り急ぎ、ぐうの音も出ないほどに仕事をしなければならない。

貧乏暇なしである。知識と経験が貧乏なのだ。暇なく動くしかない。悔しいが。