徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

シチューライスの所為で

シチューが嫌いだという人がいた。

シチュー。カレー・ハンバーグ・オムライスに代表される、万人受けする食べ物の急先鋒格だと勝手に考えていたため、驚いた。しかし、話を聞くと、どことなく納得するところがあった。その家庭では、シチューはご飯と共に出されていたらしい。物議を醸しがちなシチューライスである。この「シチューライスはアリかナシか」の議論は、ホーキング博士が頭をひねりまくったとしても結論が出ないほどの複雑さを含んでいると巷で囁かれているため、今回は触れないこととする。だが、シチューライスは賛否を分ける食べ物であるという事実が、そこには間違いなく転がっている。僕が出会ったシチュー嫌いは、シチューライスを否と感じる舌を持った人が、シチューライス家庭に生まれてしまったが故のミスマッチが原因であった。

シチューにはパンが合うこと、シチューに罪はないことを僕は伝えた。

それにしてもやはり、ファーストコンタクトは本当に重要なのだろう。

人は見た目が何割とかって最近よく聞くが、これは何にだって言えることだ。シチュー然り。恐ろしいのは、たいていの人は何らかのジャンルに帰属しており、無意識にコミュニティを代表してしまっている点である。日本人であったり、男性であったり、女性であったり、はたまたメガネの人だったり。会社や学校のようなわかりやすい帰属先でなくても、僕らは無数の集団に帰属していて、集団の突端として社会と触れ合っている。気付けばすごく巨大な主語・集団の先頭に立っているのだ。例えばその人の家庭でのシチューライスは、ビーフシチューやコーンクリームシチューなど、数あるシチューの先頭に立ち、そして、嫌われた。結果、シチューはおいしくないものと思われてしまった。割に合わないスケープゴート。シチュー界からの非難轟々が目に浮かぶ。

往々にして何が好かれ何が気に入られないのかなどわからないし、まして自分がどんな集団の先頭に立っているかのわからないものである。何気ない一挙手一投足で、あらぬ集団の株が乱高下したりする。恣意的な操作などできやしない。なにしろシチューライスを切り口にシチューにぞっこんの人も存在するはずなのだ。

シチューライスから、我が身の振り方を顧みる。どうだっていいが、シチューライスは無いと思う。