徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

真夜中エモーション

多分だけれど遊ぶにも仕事するにもそれぞれがそれぞれにエッセンスのようなものを内包していて、それを把握できるかできないかで生きやすさも変わるし生きる質も変わる。搾取される日々をよしとするか、それにやみくもに立ち向かい文句と唾を吐くか、代案を出すかどうかっていうのは、現状に中指を立て続ける心意気の有る無しで決まってくるように思う。立てた中指に突き刺さるものこそ本質だ。ほんの少し心理学をかじっていたころ、夜と霧を読んだ。ナチスドイツにボッコボコにされながらも冷静に自らの状況と周りの状況に向き合った著作であるが、限界状態の中で叡智を振りかざしていく姿はそう簡単には真似できないものであると思った。絶対に頭をストップさせて嘆き悲しみの叙情詩を綴った方が楽なのに、持ちうる知識と経験を武器に体系的に論を編んで行ったフランクルさんの根性たるや見上げるばかりである。雲にも霞む。僕らは、少なくとも僕は、あれをやらなければならない。安穏と頭はたからせているふりしてぬるま湯に満足し、頑張っているふりして達成感に浸っているうちは、噛み付く前歯は折れ、中指は曲がり、口角がにゅるにゅると上がって目じりがだらしなく下がるばかりだ。その薄ら笑いと下げた頭から得るものなぞ、一時の顧客の溜飲の降下と幾許のお金でしかない。その謝罪の根本にはなにがあるのだろうか。雇われの身で悔しさを募らせて一生懸命に体当たりをしているうちに世の中では途方もないお金が動き、モノが飛び交っている。眼前眼前の悔しさを拾い続けているだけでは果てしなく流れに置いていかれてしまう。しかし重ね重ね今僕は雇われの身で、眼前の悔しさを拾い続けることも最たる仕事だ。むしろそうしていた方が評価は上がる。バイタリティと負けん気の強いやつだと言われる。その物差しで測られる評価に満足する自分もいて、また安穏に立ち返る。時に大海を見よとは誰の言葉だったろうか。大学生になった頃母に勧められた本のタイトルだった。やっている気になっている商売、動いている気になっている距離は受動の賜物でしかない。大海では能動の人々が確固たる意志の元で間違いのない距離を進んでいる。それは全くもって正しい道かはわからないし、相当に危ない道なのだが、確からしさを必死こいて考えて見極めながら選んだその道は端から見てもどことなく確からしく見える。学びが足りず、動きも足りず、知識も見聞も足りない。叙情的っぽく嘆く幾らかの言葉しか持っていない。だからこんな文章しか書けない。それでどうするの?と聞かれて、黙って、口先でかわし続けている。頭でっかちはやめだ。動いてみてぶつかって自分の能力のなさをさらけ出してからが勝負。わからないこともわからないしできないことも知らない情けない現状から踏み出さなければならない。少しでも川下へ、大海に近づかなければ。 川の流れは逆流している。黙っていたら川上に押しやられて大海など見られやしない。いいから動かなければ。動いているのは親指だけだ。昨日も一昨日も去年も一昨年もそうだ。情けなさと向き合ってからが始まりだ。陸上じゃ勝てなかった。情けなさと向き合って、情けないままで終わった。そうじゃない。繰り返しちゃいけない。夜中の戯言で終わらないように。