徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

緊張感を持ち続けるということ

今、図書館にいる。地元の図書館だ。去年だか一昨年に建て変わったピカピカの図書館。そこはかとなくおしゃれな気分になれる。一生かかってもまず読み切れないであろう量の蔵書に圧倒されながら、手の届く範囲の本を読んだり、どうしても受けろと言われて受験を決めた微細な資格試験の勉強をする。1月末というと全高校生が毛羽立つ時期でもある。センターが終わり、悲喜交々の点数を掲げながら各人志望する大学に突っ込んでいく。二次で逆転。二次で逃げ切り。センター利用。昔懐かしの受験用語が飛び交う。僕が今腰掛けている机の両隣と向かい側が受験生だ。自己採点と復習を繰り返し、知識を何度もなんども擦り付けては自分のものにしていく様は、雪だるまを作る過程によく似ている。転がして転がして大きくしていく。ミクロでみたら反復にしか過ぎないが、マクロで見ると大きな塊を生成しているのだ。

家でやるより図書館でやったほうが捗る経験は誰もがなんとなく理解できるだろう。家だと誘惑が多いからといって、いそいそと出かけては学びに励む。家よりも外が集中できる理由は誘惑の数などではなく、他人の目があるという一点に尽きる。他人の目に晒される緊張感こそ、最高のスパイスである。

人間誰もがよく見られたい欲を持って生きている。着飾るのも、髪の毛をなんとかするのも、化粧も、髭剃りも。たいていの人の寝まきが絶妙にだらしがないのは、誰にも見られない代物であるからだ。緊張感がまるでない。例えば勉学に励む時。息するように勉学できるような勉の申し子はいいだろうが、僕のような怠惰マンは律して律してやっと机に向かう。緊張感がないとすぐにダレる。だからこそ、自室でコトを運ぼうとするとびっくりするほど上手くいかない。気づけば歌い出し、踊り出している。しかし図書館での僕は違う。背筋が伸び、颯爽とノートを開き、ミミズの這ったような文字をそこに刻みつけていく。そう、巧みに勉の申し子を演じるのだ。どうやら情けないほどに人前ではいい格好をしたいようで、大したことやってないのにさもやったったる感を滲ませてしまう。

自意識が華麗に大車輪しているとはいえ、結果として自意識ゼロになりがちな自室とは見違えるほどの捗り方をする。「彼を知り己を知れば百戦危うからず」とは孫氏の言葉だが、まったくその通りである。この自意識を飼いならし、自ら緊張感を生成できるようになった先に、百戦危うからずな未来が待っているはずだ。

もちろんこの文章をしたためている間も、僕はさも大層なビジネスを進めているかの如きすまし顔でスマホを叩いている。たまに物憂げな顔して外を見つめたりして、世界経済を憂慮してるふりしてはせっせとスマホを叩いている。もう暗い。夜だ。窓ガラスに映った物憂げな顔は、とてもじゃないけど一戦すら危ういマヌケ顏であった。