徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

壁を一枚隔てた向こう側には未洗浄食器がある

次に立ち上がったときは奴らを片付けなければならない。その事実はココロの中に黒い点として存在し、立ち上がることを拒ませている。

僕は今パソコンに向かっているわけだけれども、こうしているとパソコン以外の世界なんてあるんだかないんだかわからない。例えば今大雪山のどこかで木が一本雪の重みに耐えきれずに倒れたところで、誰も倒れた事実を確認していないわけだから倒れたとはいえないのではないだろうか。この手の不毛な水掛け論に中学生の頃熱を上げた。ありがちな生暖かい哲学青春を過ごした。つまりなにが言いたいかというと、壁の向こうの世界なんてあるかないかわからないのだ。そう、食器だってあるんだかないんだかわからない。我思う故に我あり。虚構だらけの世の中である。

でも僕は確かにさっき鍋を食べた。鍋を食べたって思う自分は確かだ。ものを食べたらゴミか洗い物が出るのが僕が生きる世界の摂理である。経験的に知ってしまっている。だからこの壁の向こうには高確率で食器が汚れたままでおいてあることとなる。たまったもんじゃない。目視すら存在を確実にしないとデカルトは唱えたのに、目視もしていない食器が壁の向こう側という超遠距離にほぼ確実に存在するという。

自分の思考以外のすべてを疑ったデカルトは洗い物をどうしていたのだろう。洗い物すらも嘘だと言っただろうか。そんなものは虚構にすぎないですって虚勢を貼り続けたのだろうか。よくわからない論理の刃を振りかざして快刀乱麻するデカルトの隣でお手伝いさんとかがイソイソと食器を洗ったりしていたのだろうか。ダメダメじゃないか。頭でっかちの極地…そう、頭デカルトではないか。

まぁいいや、洗います。立ち上がります。