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徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

僕は多分小沢健二のお話を一生できない

幾つかこのブログにも小沢健二についての記事がある。一時期貪り食うように2つのアルバムを聴いていたので、その頃に書いた。

 

LIFE

LIFE

 

 

 

刹那

刹那

 

 

この度19年ぶりに活動を本格再開させるらしい。ライブは時たまそこかしこでやっていたようなので、新曲という形を取っての活動が19年ぶりと言うことでいいのだと思う。

小沢健二が売れだした時期に人生をスタートさせ、ニューヨークへと去っていたときに小学生に上がるくらいだった僕は、今一生懸命に小沢健二の音楽を聴くし、歌詞を読むんだけれど、理解しきれていないんだろうなと感じている。どことなくフェミニンで苦しそうなハイトーンがなんとも言えずに魅力的で、公園通りや教会通りを歩きながら銀河の彼方に思いを馳せてさよならを告げる歌詞が蜃気楼の如き儚さを思わせて素敵である。

魅力を感じるのと理解をするのは違う。これはいい!と良さに気がつくのは容易いが、何がいいのかを理解していく過程は茨の道だ。もっと言ってしまえば、同時代を生きてリアルタイムで体験してみないことには、歌が生まれた文脈がわからない。それでも書籍を読み漁り、周辺知識を埋め立てまくることで相当まともな理解ができるようになるのだろう。「理論武装をする」と言うは容易いが至難の業である。

 

小沢健二復活に際して各所各方面で待ち焦がれていた声が上がっている。小沢健二の歌に共感し、救われ、数年に一回無性に聞きたくなってアルバムを聴き直しているような、オザケンラバーがカラフルな声を上げている。平易な言葉の組み合わせなのにどういう解釈にだってできてしまう歌を聴き、我が身に自然と重ねては、勇気と感傷をもらったリアルタイムオザケンラバーたち。雪がつもるように、少しずつ少しずつ小沢健二の曲と出会い、少しずつ少しずつ小沢健二を理解し、ずっしりと蓄えられた雪の壁の如き知識と理解。後追いのゆとり連中には近づき得ない遥かな思いがそこにはあるのだと感じている。羨ましくて仕方がない。

だから僕は多分小沢健二の話を一生できない。何を話しても浅はかでしかなくなってしまうから。いつまでたっても何がいいのか伝えられないまま、ゆっくり聴き続けることとする。