徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

上りと下りの狭間にて

今、通勤の際に乗る電車は路線の乗り入れがあるので、途中まで上りだが途中から下りになる。そういえば田舎にいた頃は上りと下りの概念がわからなかったものだ。懐かしい。都会の色に染まりつつある。

上り電車ってのは通勤時に大抵ひどく混む。少し郊外のベッドタウンから都心のオフィス街へ向かうサラリーマンたちが静電気に吸着された埃のごとく集まってくる。満タンのゴミ袋を捨てに行くのが億劫だからって足で踏みつけて量を減らし、さらにゴミを突っ込むように、満員の電車に火の玉カミカゼアタックをかましてなんとか自分だけはその電車に乗ろうと苦心するサラリーマン。社会の歯車がネジがゴミか。悲しい喩えだがあながち間違っちゃないだろう。

モッシュの最中にいるような密度で運ばれる車内。強制収容所に向かうユダヤ人はこんな気分だったろうか。昔見た戦場のピアニストの映像を遠く彼方に思い出す。電車が上っている限り、ジリジリと車内の密度は上がる。ライオット寸前まで高まったバイブスが、上り切った駅(僕の場合東京駅)にて一気に放たれる。カマキリの卵から幼虫が飛び出していく様と上りきった電車からサラリーマンが飛び出していく様は酷似しているように思う。何百何千という数の同じような姿をした個体がぞろぞろわらわら。グロテスクが極まっている。

僕はというとそこからまた下りだすので、飛び出す幼虫達をよそに卵の中に残る。するとどうだ、あれほどまでに狭く苦しかった車内が恐ろしく広い大地に感じられる。普通にしていればなんて事のない車内なのだが、頬と頬、吐息と吐息が重なり合った先ほどまでの密度のせいでどこか物足りない車内に感じるのだ。

堂々と椅子にかける。足なんか組んでみちゃう。一寸前まではこんなポーズしたら膝の関節が砕け散っていたろうに。ちょっとした優越に浸る。さっき生まれていった幼虫達はこの自由を知らないのだ。ふふふ、ざまあみやがれ。こんな快適な電車に座っているぞ!


今日も頑張れそうです。