徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

講釈を垂れるということ

やってみてわかったんだけれど、これは殆んど意味のない行為である。自分の知識等々ノウハウを棚卸しては相手に植え付けているふりをして、酷く身勝手な自慰行為をしているに等しい。大した意味も持たない言葉を並び立てて教訓めいた話をするのだが、どこまで相手本位で話せているかというとほぼほぼはてなマークの列挙である。

なるほど、年をとればとるほど講釈を垂れたくなる気持ちがよくわかる。あれは一種の娯楽だ。後輩等々を生贄に自らの気分を上げるためのツールに過ぎない。長い人生の中で承認欲求を他人から得られることなんて数限られている。だから講釈は絶好の自分上げの機会だ。マリオがスターを自ら取りに行くがごとく、僕らは自ら承認欲求を取りに行く。結果、講釈を垂れる。

講釈の最中、先輩ないしは上司の五感は後輩や部下を向いてはいない。全力を持ってして自らに向いている。こんなことを考えています!僕は!私は!こんなことを考えながら生きています!どう!すごい!?感銘とか受けちゃう!?でしょ?受けちゃうよね!?受けちゃってよ!五月蝿い。黙って鏡の前でやってろ。本当にそう思うんだけど、滑り出した口は止まることを知らず、加速度的に転がり続けて気づけば相手の目がお陀仏している。まだ気づけばいい。殆んどの場合気づかない。

その代わり、お金を払ってあげる。後輩の時間をお金で買うのだ。彼らは、僕らは。Winとlooseの関係をお金という共通項を持って解決していく。おごってもらうなら行ってもいいか。そんな考えが後輩に芽生える。今度は後輩の目が先輩や上司に行かなくなる。彼ら彼女らの目は、財布に行く。

上司先輩の財布を見つめる後輩部下と、後輩部下に映った自分を見つめる上司先輩。不毛な時間が蔓延る限り、居酒屋はほくそ笑み続けるのだ。