徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ひとりで食事をすることにひとり飯なんていう名前をつけるんじゃあない

Netflix野武士のグルメお題「ひとり飯」

古くはひとり旅、最近ではひとりカラオケが急先鋒となってメジャーな存在となっていった「ひとり〇〇」。「ひとり焼肉」、「ひとりファミレス」に「ひとりディズニー」。ひとりで行っちゃうほどに好きアピールと、友達が少ないアピールを同時多発的に可能とする誰得言語である。がしかし、僕も多用する。現代に生きる若者共通の辞書があるとすれば、間違いなく多数の「ひとり〇〇」が収録されているに違いない。

ひとり飯。

ひとり暮らしが今年で7年目を迎える。気付けば人生における相当の時間をひとりで暮らしてきた。友人はいたが、家に帰ればひとり。咳をしてもくしゃみしてもタンスの角に小指ぶつけてもひとり。ひとり暮らしだもの、当たり前じゃない。おっしゃるとおり。で、あるからして、僕は飯を食うときもひとりが多い。というか、ひとり以外の飯が「ふたり飯」、「さんにん飯」なのであって、飯=ひとりを指す。今更飯にひとりをつける必要なんてないのだ。まさに僕にとって「ひとり飯」は「前に前進」や「筋肉痛が痛い」、「疲労で疲れた」と同義の重複ワードなのである。安いからって腐るほど作った焼うどんや焼きそば。自炊初めの頃の気合いが見受けられたカレーやシチュー。況してやミネストローネ。最近の鍋や野菜炒めに至るまで全て、僕の食事には1人の意が含まれてきた。今更何が「ひとり飯」だろう。ちゃんちゃら可笑しい。

寂しくはない。切なさもない。「飯」の瞬間、僕は限りなく静謐な時を過ごしている。ひとりで食欲と向き合い、舌で戯れる。別に微塵もグルメではなく、大抵のものが美味しいと感じられるバカ舌であるからこそ、無邪気に味を知れる。どうだ素敵だろう。その時「飯」は会話を弾ませるクッションではなく、「飯」そのもので、「飯」なのだ。

日々、いわゆる「ひとり飯」を繰り返す。淡々と、淡々と。

でもたまに、母の作る日本食研の八宝菜が食べたくなる。父と母との「さんにん飯」が、たまに、本当にたまに、恋しくなる。

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