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徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

尊敬しないマン

ここ最近たて続いて、周囲の人間から「尊敬できる人がいない問題」を投げかけられた。生きていくにあたり、尊敬できる人がいるかいないかと言うのは非常に重要なファクターになるらしい。分からないでもない。尊敬できる人の存在は人生における先導であったり、仕事をすすめるに当たる一先ずのヘッドライトになっていく存在だ。

尊敬希求者の話を聴きながら、我が身を考えてみた。果たして自分は今まで誰を尊敬して生きてきたのだろうか。

進学や就職の折、何度か尋ねられた覚えがある。「尊敬する人は誰ですか。」

高校入試の頃、坂本龍馬と答えた。教科書に乗れる人になりたいと言った。教科書に乗っている人であれば誰でも良かったのだろう。宮沢賢治でも、安重根でも。大学に入るときの面接練習みたいなのでも不意に尊敬する人を訊かれ、とっさに父親と答えた。朝早く起きて仕事に行って云々。ありがちで面白みにかける返答だが、とっさに出てきたのであるから、父よ、自信を持ってください。就職活動に関しては色々訊かれすぎて果たして尊敬する人について聞かれたか覚えていない。聞かれていない気がする。

こうして何分か逡巡してたどり着いた結論が、僕はいまだかつて誰かのことを心より尊敬したことがないのではなかろうかということであった。

目標はあるし、目標となる人もいる。しかし、それは必ずや抜き去る前提の物体であって、尊敬の対象ではない。というかむしろ、尊敬の念が出てきた時点で勝てないんじゃないのくらいのことを考えている。尊び、敬う。字面からすると別に目上の人に対して尊敬の念を持たねばならないわけでもなさそうだ。ミミズだって、オケラだって、アメンボだって、みんなみんな生きているんだ、尊敬しているんだ。これでも全くおかしな話ではない。しかし世間ではとかく「尊敬」の念は自分より社会的地位とか年功とかにおいて、自分よりも上の人間に対して抱くもののように定義されている。また、尊敬する人を追い続けて研鑽に研鑽を重ね、追いついていくストーリーは素敵ではあるが、尊敬する人に追いつくまでにおそらく幾つもの目標をクリアしてきているはずであり、追いついた時点で尊敬する人はすでに目標となっている。

僕から見た坂東玉三郎のような、全くの異業種かつ勲章をもらってしまうような人が語る哲学に対しては尊敬の念を禁じ得ないが、僕が玉三郎を追うことはおそらくこの先ないだろう。彼の生き方、考え方を糧としながら自らを律していくことは大いにあれど。

「すごい!」でもなければ、「立派だ」でもない。強いていえば、「はぁぁぁぁ。」って声にならない叫びを上げるような心情が一番近いように感じる、「尊敬」。はるか先だとしても、すぐそこだとしても、同じレールに乗っている人に対してはどうも尊敬の前に悔しさが募る質を患っているらしい。極端な負けず嫌いだったわけじゃなかったと思うのだが。悔しい悔しい言いながら何もしない人間にはならんように、自らの見聞見識の醸造に精を出そうとは思うのだが、Amazonプライムとブログを行ったり来たりしているだけの情けない時を過ごしている。尊敬云々言える資格なんてなかった。

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