徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

スピッツという故郷について、時処位論より考える

陽明学だったろうか、「時処位の論」という考え方がある。

孔子老子孟子だと、聖人と言われる人々がいるわけだが、現在、彼らの言動をまるまる真似したところで、それは意味ないよね。時と場所と立場によって聖人たる振る舞いの方法は変わってくるよね。

まぁつまり、大賢人の物言いをうまく自分と時代に落とし込んでいきましょうということらしい。こんなことを、陽明学者のなんとかって人が説いている。詳細が思い出せないのが酷く悔しい。

大賢人の素行を真似するのはもちろんなのだが、そこまで大層な話でなくとも、僕らは知らぬ間に歳を食って、青春時代に熱を上げていたことが今や全く興味ないみたいなことが平気で起こる。ある種の時処位である。とびきりの集中を生みたい時に、あるときはゲームに向き合っていたはずなのに今はパソコンになってる。とか。時処位だ。

音楽もそうで、BUMP OF CHICKENとかビートルズとかRADWIMPSとか、狂ったように聞いてテンションをカチ上げていたのに、今はそれがBiSHであったり、大森靖子であったりとする。僕のスイートスポットの路線が大きく変わっているわけではないが、対象は確実に変化している。

また、僕の好みが少しずつ変わっていく間、BUMP OF CHICKENBUMP OF CHICKENなりに新しい音楽に挑戦して、僕らが夢中になった頃のBUMP OF CHICKENではなくなっているし、それは割とどのバンドにも同じことが言える。

するとどういうことが起こるのかというと、「昔聴いてた堪らない曲を今聴いてもそこまで心が踊らないから、そのアーティストが最近出した曲を聴いてみたけど、アーティストも変わっちゃってて全然心にピタッと収まらない。」ということが起こる。またはそもそも解散しちゃってて全く新曲が聴ける状況がないとか。だから僕たちは、心の隙間を埋めるアーティストを、一曲を、どこまでも探し求めるわけだ。

そんな中、スピッツ

スピッツがすごいのは、結成からおよそ30年、大ヒットから20年という長い間、少しずつ芯をずらしながら曲を発表し続けている点だ。どう例えようか。古今東西に散らばるいろんな音楽に「スピッツ」というコーティングを施して楽曲を発表しているイメージ。これが一番近い気がする。一度スピッツという味を好きになってしまうと、スピッツが好きな限りはいつスピッツを聴いてもグッとくる。パンクロックにありがちな、同じアルバムに三曲くらい同じような曲が入る焼き増し現象も起こさせず、少しずつ芯をずらしてスピッツ民を喜ばせている。解けない魔法である。

時の流れに流されながらも流されない絶妙なスタンスを保ち続ける彼らは、時処位を超越した存在である。なんかうまい曲がないなともやもやしている時、不意に昔懐かしのスピッツを聴く。うーん、なんか違う。既視感しかない。もっと違うやつが欲しい。で、試しに最新アルバムに手を出すと、これ!これだよ!これが聴きたかった!こんな風に、冗談みたいに都合よく、変わらないまま少しずつ変わってスピッツはいつもそこにある。清らかな声と爽やかなメロディに乗せて生暖かくてどろっとした気持ちを歌っている。

音楽界にはびっくりするほど色々な聖人バンドが溢れている。うつろっている。有象無象の中でのスピッツ。それは時処位に惑わされない貴重な存在なのだ。

なんか別に時処位の論に絡めないでもよかった話だった。

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