社会に出てからというもの、大学まで競技をしていた話をするとみなさまよく食いついてくださる。もっぱら凄いねと言われる。僕自身、楽しいわけではなかった競技生活の晩年だったので、「凄いね」「頑張ったんだね」と声かけられると悪い気はしない。ほんの少し報われた気がする。
就職するときにも体育会が出自という肩書きは武器になった。採用担当連中がどう僕のことを見たのかわからないが、多分10年間歯を食いしばって陸上していたと聞けば、それなりに頑張れるやつなんだろうと見ただろう。真か偽かは別として。頑張ってきたことに貴賎はないとしても、「ウケ」を考えると徳な頑張りをしていたと思う。
果たして、働きだしてからが勝負となる。
部長級か、それ以上の肩書きを持つスーパーサイヤ人たちは僕たちペーペーに対して異口同音に「新しい風を吹かせてください」みたいなことを言う。便利な言葉だ。耳元で桃色吐息でも吹き掛けてやろうか。まぁいいのだが、問題はこの新しい風が含む意味だ。組織に新しい人間が入ってくると、凝り固まった組織が少し活性化する。道理である。新しいノウハウ、新しい考え方、見方。諸々を伝播してくれと望む。
噛み砕くと、
新しい風を吹かせて=組織の問題点を見つけて直して。よりよい組織にして。
みたいな話である。
ここに、めっちゃ頑張れるとされる体育会人間が突っ込んでいく。より良い組織にするために。いい影響を及ぼすために。
一般に言える話なのかはわからないのだけれど、陸上を一生懸命にやっていた僕は、改善の矛先が自分に向かうことが多い。特に個人競技を生業としていたアスリート達に多い傾向だろう。ハードルを跳んでいた時もそうだった。如何に速くハードルをクリアしていくか。走るか。自分の筋肉と技術に向き合っていた。仕事でもそうだ。どうしたらもっと効率よく動けるか。どうしたら円滑に仕事ができるものか。
つまり。
会社は外向きなベクトルで改善をしていってほしい。けど、アスリート達はどうしても自分たちに改善のベクトルが向かう。
なんていったって、ルールの中でスポーツをしていたわけだ。サッカーでボールを抱えるわけにはいかないし、ハードルを避けて走るわけにはいかない。決められた枠組みの中での創意工夫をしていた。そのため、「そもそもハードル跳ぶ必要なくね?」みたいな議論には中々ならない。
でも、スーパーサイヤ人が求めるのは多分、「そもそも脚でボール使う必要なくね?」みたいな発想だ。
目標を立てて、そこに向かって全力疾走をするスキルは多分体育会人間は高い。しかし得てして、ストイックに自らを武装する的な方法を取る。新しい風を自らの中に吹かせている。まぁそんな姿を見て、あの子頑張ってるねぇと言う評価が為され、副産物として職場の士気が高まることはあるかもしれない。けど、その程度のことだ。
そういうわけで、社会に出た時、アスリート達はコペルニクス的転回を求められる。天動説から地動説への変革に似た、内向きの視点から外向きの視点への変革だ。
便利づかい人間で終わるか、そっからまた先のステージへ進むか。考え方をひっくり返せるかどうかにかかっている。