徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

人の特徴に名前が付くのは良しか悪しか

なんとなく怠くて喉が痛くて熱っぽいけどまだ頑張れると気持ちを奮い立たせて仕事をしていたとする。案外人間気合いでなんとかなるもので、多少辛くてもやっていけてしまうのだが、ふとした出来心で熱を測って、38度とかって数字を見てしまうと気持ちの突っ張り棒は虚しく折れる。現実に気合いは弱い。

「熱」という数字は逃げようのない事実だ。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

上の記事にも書いたのだけれど、人間は言葉で考える。言葉で通じ合う。すなわち、言葉が事実となる。例えば未知の食べ物(仮にここではミミガーとする)に出会ったとき、僕らはそれに対して何も語ることはできない。「これ」とか「それ」とかっていう代名詞を用いて指差すしかない。しかし一度「ミミガー」と呼ぶものだと知ると、「それ」でしかなかったものは途端に「ミミガー」になる。言葉が世界を形作る好例である。

 

モノを指す名詞が増える分には便利だが、人の特徴を指す名詞が増えると、単純に便利ではなくなってくるように思う。

近年急激に聴くようになった「発達障害」。生きづらさを抱えて生きてきた人がこの言葉を手に入れて、やっと自分の悩みの輪郭が縁取られたと言った話も聞く。多分それは良い影響だ。けど一方で、名詞が増えて流行るということは他人へのレッテル貼りを簡単に許すことでもある。「根暗」と「根明」なんて最たるものだろう。

発達障害」や「アスペルガー症候群」と言った名詞がもたらす影響は、良い影響が多いのか、悪い影響が多いのか、どちらなのだろう。これは巨大な生きづらさに悩まなかった僕みたいな人間が判断できることではない。フォアグラを食べた者しかフォアグラについて語れないように、当事者にしか判断できないことだと思う。

名前がついて理解が進む世界となるか、名前がついて区別が進む世界となるか。前者であるべきだと、発言権は小さいなりに考えている。