徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

「クセがある」という巧妙な悪口

主に人に対して使われる「クセがある」に良い意味合いが含まれることがあるのだろうか。ないと思う。少なくとも僕は知らない。「ナンプラーみたいなひと」といえばスピッツの歌詞になりそうなくらい可愛いが、「クセがある」は可愛くない。「クセがある」が話題に出てきて、枕詞にでもなった際にはネガティブな意見が羅列されていく印象。「嫌い」でも「性格悪い」でも、「変わってる」でもなく、「クセがある」。薄いオブラートに包んだ批判の気持ちが間違いなく秘められている。自分の主張を隠しつつ、他人を攻撃する意地汚さすらも垣間見られる。

「クセがある」にいい意味が込められないと知ったのはそこそこ大人になってからだ。初めてその意に気がついた時、なんて便利で卑怯な言葉かと震えた。「僕は好きでも嫌いでもないですが、多分普通の感性からするとちょっとエグ味とかを感じられるかもしれません。いや、僕は特にどうも思ってないんですけど。」良いや悪い、好きや嫌いを言わず、自分の主張を込めないままに放り投げる「クセがある」。身の安全を確保しながら責め立てる様は、古代ローマの頃から変わらない。ほぼ投石機そのものである。

「クセがある」が批判になるということは、「クセのない人が好まれる」前提が巷に溢れている証左だ。クセのない人は所謂普通の人だろう。じゃあ普通の人ってどんな人?となると思春期の少年少女が抱く悩みのように生暖かさを帯びてくる。

日本の国民性なのか分からないが、名もなき誰かになりたい一種の同調圧力が特に思春期に大いに働く。僕自身もすごく感じた。浮かないように足並みを揃えながら恐る恐る青春を過ごした人も多いだろう。共通の話題に共通の価値観。最初は懸命に共通の諸々を取り繕うが、慣れとは怖いもので、大人になる頃には集団に溶け込むプロフェッショナルに育っていく。

誰もが杓子定規を選び取っていく中、その判断をしない者もある。そもそも杓子定規の存在に気づかない者、選びたくても選べない者、選べるけど一周回って選ばない者。

思春期に大多数が横を見ながら杓子定規に自らをねじ込んでいく以上、杓子定規からはみ出た人は皆「クセがある」認定されていく。醤油と味噌になれた日本人がパクチーナンプラー「クセがある」と感じるのと同じ構図だ。

殴っていいのは殴られる覚悟があるやつだけだし、撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけ。悪意のギブをしたら、悪意のテイクを受けて然るべきなのだ。それを自分だけ安全地帯から石だけ投げるのはどうも容認できない。引っ叩かれても揺らがない人間性と覚悟を持って引っ叩けよと。自信ない上に引っ叩かれんの嫌なら引っ叩くなよと。言いたい。

その覚悟を持ってして人間やっていきたい。