徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ビジネスの創作と魂の浪費

この間、高校の同級生が泊まりに来た。彼とは幼稚園からの付き合いだ。大学院まで英米文学を突き詰め、今は田舎で教鞭を取っている。彼は読むのも書くのも好きで、かつてはノーベル文学賞を取ると言って憚らなかった。今その夢はどこにあるのか、彼にしかわからない。でも、すごく書きたいって言ってた。書けばいいと思うし、読みたいとも思う。

さておき、得てして創作にはエネルギーが必要だよねって話をした。これには誰もが納得するところだと思う。以前、ロックスターは統計的に見ても早世するといった記事がネットニュースに上がっていた。リンキン・パークのべニントン然り。人生がろうそくだとして、人の何倍もの火力で人生の蝋を溶かしまくって燃え尽きていくイメージをするとすごく分かりやすい。それだけ、創り続けるには命の火力が必要だし、むしろ人並みはずれた火力をもつ者のみが創作者たり得るんだろう。

このような生粋の創作者とは別に、ビジネス創作者もまた存在する。例えば大川隆法なんて、2000冊を超える著作がある。渾身の力を振り絞ってたら命がいくつあっても足りない量である。ここまでの例は極端であるにしろ、つんく♂秋元康小室哲哉などのプロデュースと楽曲提供を生業としている人たちは、多分だけれど創作に命を燃やしてはいない。いくつもいくつものプロットをストックしていて、それらを組み替えたり入れ替えたりしながら、数多の作品を創る。作業っちゃ作業だろう。

彼との話の中では、やはり命を燃やし尽くす創作こそ創作だろうなと結論した。言葉や音楽に魂をぶつけて散っていった先人達をみると、ある種早世こそが表現者だとすら思う。感情ど真ん中ストレートを表現するのは本当に辛い。苦しい。批評なんかされた日には生きていられない。人生を批評されているようなものである。思春期のころ誰でも一度はやるであろう生暖かいポエム執筆。あれこそど真ん中ストレートで、大抵は見せるに耐えない代物となり記憶の彼方に葬られていくが、一部、本当に一部の人だけ、むき出しが受け入れられる。受け入れられてしまう。心の擦り切れが商業ベースに乗った瞬間、スターが誕生する。そして燃え尽きるまでのカウントダウンが始まる。ポストロックのような凝った表現じゃなく、社会や市場のテーブルにポッカリ空いてた穴にすぽっと入っていって、それっきりである。

ある種、物理的に生き残っているアーティストの中に激情型なんていないのだろう。感情とある程度友好な関係を気付きながら、うまく創っている。一度は命をすり減らしながら、燃え尽きないために距離の取り方を学んでいくのだ。言いたいことを言えた気がしても、結局感情の遥か手前をウロウロしているだけだったりする。彼が文学賞をとるとして、どんな文章で取るのだろうか。どんな文章を書いていくのだろうか。燃やし尽くした文章を読みたい。毎日ブログを書くみたいなロングブレスダイエットではなく、大爆発で全部酸素をなくしてしまってほしい。

応援している。