徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

コース焼肉、誰と食べるか、どこで食べるか

今しがた、めちゃくちゃ美味しい焼肉を食べてきた。便乗に次ぐ便乗にての食事であったが、これが美味しかった。日頃食べているのが100グラム40円に満たない素敵な鶏胸肉だということもあり、一切れ2000円の牛肉のインパクトが比類なきものとなって脳みそを揺さぶった。

自ら美味を求めて歩き回るほどの美食人間ではないが、コバンザメとなって美味しいものと巡り会うことは、ままある。焼肉でいえば、従兄弟と行った名古屋の焼肉屋さんが特別に美味しかったし、その足で京都の先斗町に出向いた際に食べた牛の希少部位三種盛りも抜群だった。やはり良いものは美味しい。もれなく高いけれども。

「美味しい」は瞬間瞬間で激烈だ。脳天に直撃する。しかし時間を置くと、何が何やらわからなくなってしまう。強烈に美味しい記憶さえあれ、その瞬間の感動を思い出そうとしても靄がかかったようにボヤけて見通せない。痛みもそうだ。あの切り傷やあの刺し傷、捻挫や骨折。どれも二度とごめんだが、どんな風な痛みだったかを思い出そうとしても確かなものが引き出せない。痛みに関しては引き出せなくて一向に構わないのだが。

良し悪しは別として圧倒的な知覚に晒されると、それは記憶として頭の中に収容されるらしい。焼肉しかり、怪我しかり。確かに感じた痛みや美味しさが記憶の原動力だ。でも、知覚は記憶に残らない。「美味しいものを食べた」、「痛い思いをした」。事実だけが焼き付けられ、一番取っておきたい、あるいは忘れたい知覚自体は消えていく。

どうせ食べるなら美味しいものをと思う気持ちは、この上なく贅沢なのかもしれない。記憶にすら残らない美味しさを求めるのである。

この度の美味しさを僕は忘れていく。なんならさっきリステリンをした時にもう忘れている。でも、誰と食べたとか、どこで食べたとかの記憶は残る。それこそが財産なんじゃないかなと思った。

コース焼肉、誰と食べるか、どこで食べるか。