徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

本日、誕生日につき

25年前の今日、後の185センチの巨体が40センチに毛が生えたくらいの極小な体で生まれてきた。当時から出不精だったのか、相当母親のお腹の中が居心地が良かったのか、いい加減生まれろと促されているのにも拘らず全く聞く耳を持たずに、帝王切開にて誕生した。多大な負担を強いられた母親は産後にとんでもない大きさの10円ハゲができてしまったという。僕は母親の頭髪に誓って親孝行をしようと決めたのであった。
まず大きくなることが孝行だと考えた僕は狂ったようにミルクを飲んだ。飲んで飲んで吐いた。吐いては飲んだ。そうして蓄えた栄養のおかげで一ヶ月で体重は倍増した。ジンバブエのインフレ率もびっくりしちゃうほどの短期間での成長である。体の大きさが決まった瞬間がどこにあったかというと、きっとその1ヶ月の爆飲みだった。
武家であれば確実に重宝されていたであろう体格。しかし我が家は商人の家だったのであまり関係なかった。3歳で1メートルを超えたあたりで、巨人症の疑いありと小児科だか産科の先生に通告された母は焦ったとか焦らなかったとか。同い年のオトモダチだったゆうちゃんが僕を見るたびに大きさに怯えて逃げ出す記憶はとても鮮明に残っている。そういえばゆうちゃんは「シャチとサメだとどっちが強いと思う?」というクイズを頻繁に出してくれた。そのため、22年経った今でも僕は「シャチとサメだとシャチの方が強い」ということを知っている。だが、3歳時点のゆうちゃんが間違っていた可能性もある。真実は闇の中である。
その後、保育園に通うことになる。YMCAという小便臭さと元気をフラスコの中で撹拌したような保育園に通った。小便臭さは家屋の古さによるもの、元気は教育方針によるものだったが、どちらも嫌いだったため、それらが合わさったYMCAも好きでなかった。通園バスに乗るのを拒み、家の中に籠城し、園の前で逃げ出し、あらゆる選択肢を行使すれども腕力と権力のダブルパンチで園に収容されていく理不尽を覚えた。あまりにも僕は無力だった。
幸い転園の運びとなり、キリスト教系の藤幼稚園に転園した。新しい友達だらけだったので最初こそ相当躊躇したが、なんとなく同じ毛色の人間が集まっている雰囲気があったのでしばらくしたら慣れた。元気を強要されることもなく、大人しく机に座って世界中の国旗を描きまくっていてもそれが褒められた。とても嬉しかった。キリスト教がなんたるかを学べたのも良かった。当時の情緒発達にどれだけ寄与したかは知らないが、今、キリスト教について人より少しだけでも詳しいのは得したと思う。これから出勤なのであるが、これを「まるでゴルゴダの丘に登って行くかのような気持ち」と形容できる人がどれだけいるだろうか。やはりキリスト教に助けられている。ちなみに、ゴルゴダの丘はキリストが処刑された丘である。彼は十字架を背負い、茨の冠をかぶり、錘を四肢につけながらゴルゴダの丘を登ったのであった。
やはり幼稚園でも一番大きい子であったが小学校に上がるとさらなる猛者とであることとなる。自分より大きい同級生に初めて出会った。カルチャーショックだった。生まれた直後、親孝行のために爆飲みしたミルクであったが、今度が自分の沽券のために爆食いをした。給食を貪り食べた。余った牛乳じゃんけんでは遅出しをしてまで牛乳の獲得に躍起になった。後に摘発され、僕は牛乳じゃんけんの参加券を2週間剥奪されることとなる。隣の席のさとこちゃんが食べ残しているならばそれも食べた。全ては大きくなるため。大きくなりたいがため。しかし、小学校6年間を通して、結局ナンバーツーに甘んじた。
やはり小学生というのは多感な時期であり、諸々鮮明な記憶が残っている。あれだけ献身的に給食を恵んでくれていたさとこちゃんにスキー授業中に雪玉を投げたところゴーグルにクリティカルヒットしてヒビが入り、こっぴどく叱られた。人に物を投げちゃいけないと学んだ。また、原因不明の呪いにかけられたこともあった。僕の周りから人がいなくなった時期だった。イジメは良くないが、その後しばらくして僕もイジメに加担することになる。人なんて弱いものだ。さらには、密かに想いを寄せていた娘に想いを告げるも、同級生が面白がって対抗馬を立て、その娘が対抗馬を選択するという悲劇もあった。ちょうど郵政民営化と時期が重なり、芸能人候補者が人気だけで当選する姿に恨めしさを覚えた。
何より書かねばならないのはこのころピアノを習いだしたことだ。おかあさんといっしょの時分から抱いていた音楽への興味が結実した。「トンプソンのピアノ教本」の最初の曲、「のぼって おりて とんじゃった」から「ラ・カンパネラ」まで連なるクラシックピアノ人生。今きらきら星変奏曲を聴くと、小学5年生でこれ弾いたとか天才なんじゃないかと思うんだけど、YouTubeにはほんまもんの天才達が珠玉の演奏を披露しており、あぁ、この世界は自分のいる世界じゃなかったと胸を撫でる。9年間の間、幾度もやめようと思った。ピアノの菅原先生は穏やかながら一度スイッチが入ったら閻魔にもデーモンにもなる素敵な先生であった。恐怖におののきながら練習をしないという怠惰をカマし、やはり叱られるイビルスパイラル。もう辞めたい、行きたくないとゴネる度に親父がじゃあ辞めろよもう!と半ギレになり、息子は息子で辞めろよと言われたら辞めたくなくなるといった茶番劇の果てに継続があった。この継続があったからこそ、今の創作活動がある。当時の忍耐と親父の半ギレには心より感謝したい。
中学に上がると不良に出会う。
それまでは比較的牧歌的な毎日を過ごしていたのだが、中学になって初めて尾崎豊な修羅を生きる連中と邂逅した。言葉より力、対話より圧力。そもそも机に座って大人しく国旗を描いていたい人間が、選挙ポスターを破って燃やすような層の人間と合い入れるわけもなかった。だが、キリスト教系幼稚園を卒園し、小学生の頃もたくさんの学びを得た僕はそれなりに立ち回り、クラスの中でそれなりに生きて行くことに成功する。武官が荒れ狂う中、文官は諌めようと躍起になった。が、結局なんの気なしにイジメに加担もしたし、武の者と言い合いになった際は筆箱を粉々に砕かれたりもした。でも、そんなもんだった。タバコを吸ったり、襟足を伸ばしたり、ワックスをつけたりすることなく、品行方正なまま卒業した。陸上競技と出会ったのもこの頃であった。小学生のころにハードルの授業で褒められたのが興じて部活に入った。楽しく陸上をやりましょう!と、陸上人生の中で最も長閑に楽しく陸上ができた。幼少期から食べまくって飲みまくって貪りまくって養成したしなやかな筋肉が少しずつ目覚め、大した韋駄天でもなかったが、高校でもやりたいと思える程度の余韻を残して終えた。
書き連ねてみると現在にまで至る人間性やら形作るものはこの頃までにほぼ完成したと言える。つまり僕は中学生の頃と大して変わらない価値観の元、動いている。雑魚である。
とりあえず、ゴルゴダの丘を登り切りそうなので今のところはここで筆をおく。出来心で他が為でもなく書き出したが案外と筆が滑るものである。やっぱり自分のことは書きやすいし、書きたいんだろう。次は10時間後ほど後、イースターに筆を再度取ろうと思う。