徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

僕がSNSを苦手とする理由

昨日、以下のようなセッションがあった。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

概ね、初めまして同士がコンタクトを取り合うのだが、四の五の言う前に皆様がスマホを取り出してFacebookで友達申請を送ったことに僕は心の腰が抜けた。ヘナヘナ。

古くは、村から出ないまま村の中のコミュニティのみで生涯を閉じるものが多かったと聞いている。せいぜい、藩の中。一生に一度の遠出が、御陰参り。代々継ぎ足し継ぎ足しされてきた濃厚ソースのような熟成っぷりを見せていた人間関係だが、ここのところ爆発的な広がりを見せている。

 

SNS

 

ゆるい繋がり、遠浅の繋がり。TwitterやFacebookのお陰で世界は繋がる。

しかし、僕は心底SNSが苦手である。ブログでは割と雄弁なのだが、いざTwitter、いざFacebookとなると尻込みが止まらない。なぜだろう。なぜなのだろう。以下である。

 

僕が持つSNSへの固定観念

第一に、SNSとは自らの動向、主義、主張、趣味、趣向を他者に発信するツールであると考えている。自らの情報を不特定多数にさらけ出して、何らかのアクションを貰う。似通った考えの人たちが、それこそゆるーく繋がる。誰かの賛同を得る快感たるや、筆舌に尽くせない。

現代において、SNSに参画しオンラインで繋がるということ。それは発信者からすると自分の中身を曝け出し、受信者からすると他人の中身を垣間見ることと同義であろう。

 

顔見知りに自分の中身を曝け出すということ

TwitterもFacebookも、大抵は知り合い同士で繋がる。そして知り合い同士の主義主張を伝え合うこととなる。

僕はそもそも顔見知りが苦手である。遠い昔に一期一会した気がする…くらいの、浅くて古い友人が苦手だ。地元に帰って、街ですれ違うだけでもドギマギするのに、そんな人たちに主義主張を曝け出すことが怖い。恐怖である。

かたや、ブログは違う。自分の所属するコミュニティとは別方向に開けている。自分のことを知らない人に自分を曝け出す楽さったらない。旅の恥はかき捨て理論。

 

自己顕示欲と自信のなさのせめぎ合い

自分のことを知られたくない気持ち。それは自信のなさの表れである。間違いない。

僕、こんなことしてます!こんなこと考えてます!こんな記事に興味持ちました!この記事に出てる人、僕の知り合いです!

主義主張に自信があるから、叫べる。趣味趣向に自信があるから、繋がれる。

僕は自分にそこまでの自信が持てない。なんとなく、相手の反応とか考えてしまう。だから僕はSNSに誕生日を登録するのをやめたのだ。生まれた日をゆるい繋がりの人に機械的に祝われることに自信がない。

でも、顕示欲は止まらない。

だからブログを書く。読んで欲しい人には、ブログを教える。が、基本的には見ず知らずの人が読んでいる。楽。昔の村社会が一家伝承秘伝のソースだとしたら、SNS連中は中濃ソース、ブログはウスターソース。そんな感じのイメージを持っている。各々やれる範囲の顕示欲解消法を見出して生きているのだろう。僕は、ブログ程度のシャバシャバな付き合いであれば自己顕示できる。そういうことだ。

 

実際に繋がって何かを起こすためには

昨日拝見した限りでは、Facebookから仕事が生まれるようである。オンラインからオフラインの仕事が生まれたり、オフラインで出会って、オンラインで繋がってそのまま仕事が生まれたりする。仕事となるとシャバシャバな付き合いじゃ困る。ある程度の濃度の関係になるには、互いの主義主張趣味趣向を伝え合うリスクくらい必要なのだろう。なんとなくわかった気がする。

 

 

結局、何を求めるかである。SNSに。

誰かと何かを実らせたいなら日頃からオンラインとオフラインを行き来しながらコミュニケーションを築かなきゃいけないし、ただひたすらに書き殴りたいだけなら文章をしこたま書いてしこたま落としていけばいい。スタンスの違いだ。

そう、つまり、昨日はオンラインで実らせまくっている方々との邂逅だったわけで、当たり前のようにオンライン開帳をやり合っていたのだった。

別にこのブログで何が起こるわけでもなかろうが、案外興味を持ってもらえたり貰えなかったりしたので、少し顕示欲の幅と関わりの濃度を上げてもいいかなと思った。

 

こんだけ書かないと消化できないほど、SNSが苦手なのです。