徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

本当のところ、「やばい」の何がやばいのか

スタバで隣に座った「やばい」コミュニケーションの権化である女子大生と思わしき集団と、どんな主張に対しても「やばー」で済ませてしまう貴方に捧ぐ。

「やばい」

〔「やば」の形容詞化。もと,盗人香具師(やし)などの隠語

身に危険が迫るさま。あぶない。 「 - ・いぞ,逃げろ
不都合予想される。 「この成績では-・いな」
若者言葉で,すごい。自身心情が,ひどく揺さぶられている様子についていう。 「この曲,-・いよ」 〔若者言葉では「格好良い」を意味する肯定的文脈から,「困った」を意味する否定的文脈まで,広く感動詞的に用いられる〕
 
weblio辞書より引用

 

「やばい」とは便利な言葉で、ありとあらゆる心情を表すことができる。しかし、「やばい」がまかり通る世界は相当やばい。「やばい」が今のような絶対的地位を築き出した当初、方々から指摘されていた「やばい」のやばさを、僕はやっと実感してきている。果たして「やばい」の何が本当にやばいのか。考えてみたい。

 

「やばい」が表す範囲

「やばい」はとにかくどんな文脈にでも顔を出す。

先に引用したweblio辞書による「やばい」の説明であるが、weblio辞書でいう③の用法を応用・乱用すると、「やばい」が修飾できる言葉は全て「やばい」で表せてしまう。しかも、「自身の心情がひどく揺さぶられている」という状態を「やばい」とするわけだから、知覚できる言葉全てに「やばい」は修飾しうる。肯定と否定はもちろんのこと、歓喜、消沈、焦燥、快楽、危機。あらゆる感情あらゆる状態を十把一からげにしてしまえる。

やばい(くらいに嬉しい)。

やばい(くらいに悲しい)。

やばい(くらいにトイレ行きたい)。

極端な話、人が行うことや感じることについては、「やばい」で表せないことはない。

また、①の用法は、「(〇〇だから)やばい」という、帰結として用いられる「やばい」であるし、②は出川哲朗氏の「やばい」である。

 

実際の「やばい」の使われ方

辞書的な意味を傍らに日常を見渡した時、「やばい」には大きく二つの使われ方があるように思う。

  • 反射的用法
  • 感想的用法

勝手に名付けた。

 

まず一つ目の反射的用法。

とっさの「やばい」だ。これはwablioでいう①の用法である。

あらゆる感情が「やばい」と結びついてきているのは先述の通りであるが、そういった環境で育った世代は不意に起こった出来事について「やばい」を繰り出す傾向にある。

横断歩道を渡っている時に車が突っ込んできた。

やばい! 

朝起きて時計を見た。寝坊してた。

やばい!

どちらも「やばい」。どこまでも「やばい」シチュエーションである。

「やばい」の反射的用法では、「やばい」の後の咄嗟が省略されている。「やばい!避けろ!」であったり、「やばい!寝坊した!」であったり。今や、「うわ!」とか「あ!」とかの間投詞(感動詞?)と同じ列で語られる言葉となっており、言葉自体に大きな意味はないように見える。

 

問題は二つ目、感想的用法である。weblioでいう、②と③の用法の混合だろうか。

先述の通り、「やばい」は、何にでも修飾するし、「やばい」の主語は省略できてしまう。すると、お互いが同じ状況を共有している時、「やばい」のみで会話が完結してしまう。

二人で横断歩道を渡っている時に車が突っ込んできた。

A「やばい!」

B「うわー、今の車まじやばかったね」

A「うん、まじやばかった」

こういう会話は巷でめっちゃ多い。

 

あまりに「やばい」だけで話が通じてしまう。「やばい」さえ用いれればある程度の会話がこなせてしまう。そのような「やばい」コミュニケーションにこそ問題が潜んでいる。

 

「やばい」が伝えるもの

余談となるが、今年「けものフレンズ」というアニメがカルト的な人気を博した。

kemono-friends.jp

放送当初、「IQが溶けるアニメ」として取り上げられていたのをよく覚えている。

IQが溶ける要因は作品が持つゆるい雰囲気と、作品内で登場する語彙量の少なさによるものだった。

「すごーい」

「わーい」

「きみは〇〇が得意なフレンズなんだねー」

あらかたどんな刺激に対しても「すごーい」とレスポンスするキャラクター達。脳みそをストップさせる魔力を秘めていた。

昨今の「やばい」と、けものフレンズにおける「すごーい」は殆ど同じ作用を持っている。何がやばくて何がすごいのか知らなくてもお話は進んで行く。

「やばい」において最も大切なことは「やばい」の後ろに続く言葉である。ひっくり返っても「やばい」は感情の程度を表すだけであり、何が「やばい」のかは説明してくれない。

ただ、話だけは通じてしまう。

すると僕たちは錯覚を起こす。「やばい」でコミュニケーションをとっている。「やばい」に意味が含まれる。そう考える。「やばい」の隠れ蓑に包まれた伝えるべき気持ちは見過ごされたままに。

 

言葉で考える僕たちにとっての「やばい」

よほど特殊な人(天才とかの類)でない限り、僕らは言葉を用い、言葉で考える。いくらデザイン思考が叫ばれる世の中でも、思考の枠組みは言葉で決められている。

そんな僕たちが、である。「やばい」のその先を考えなくなったとしたら。

別に通じればいいじゃんって言われたらそれまでだし、正直、コミュニケーションを取るだけであれば「やばい」で事足りてしまう。

ただ、仮に対人関係は「やばい」で切り抜けられたとしても、自分の中で考えをまとめるとき、「やばい」だけではどうしようもない。

今の「やばい」はどこがどう「やばい」のか。

これを考えければならない。

なんとなく「やばい」で済ませてしまうと本当にやばい。虚無である。空っぽである。もはや言葉を用いる動物の特権である思考を放棄しているに等しい。

確かに、「やばい」しか感想を抱けないことはあるだろう。

圧倒的に頭の回転の速い人間に出会って、淀みなく異論の返しようのない話をぶちかまされたときとか、「やばい」でしかなくなる。不慣れな映画を観て、何がいいんだかの正体がわからないまま感動はしたときなんかは、「やばい」である。

しかし、食らいつく。食らいつかなければならない。頭の回転速いマンの話を一生懸命反芻して「こういうこと?」って訊いてみなければならない。また、映画を観た後、訳の分からない「やばい」の原因を辿らなければならない。

訊ねること、原因を辿ることこそが思考であり、思考こそが「やばい」に隠された本当の気持ちと出会う唯一の手段である。

 

「やばい」を暴け

コミュニケーション上の「やばい」は類を見ないほどに優秀であることは書いてきた通りで、僕もその恩恵に預かっている。

だがやはり、使い分けが肝心である。

「やばい」で完結させてしまっていい部分と、「やばい」から一歩先んじて考えなければいけない部分。両者をしっかりと見極めねばならない。

「やばい」で終わらせてはいけないことを「やばい」で丸め込んでしまうこと。思考をストップさせる力を持っていることこそが「やばい」のやばさなのである。

 

こうやって書いているブログであるが、「やばい」的視点からすれば、「やばい」の正体を暴こうともがいている醜態だと言える。

洗濯物干すのやばい

買い物行くのまじやばい

電車からの風景やばい

この曲やばい

この本やばい

今感じた「やばい」ってなんだ。ほとばしる「やばい」の理由はどこにあるんだ。日々の「やばい」を切り取って、「やばい」で済ませないように立ち向かっている。酷く内省的な作業を恥じらいながらも大っぴらに行っている。

 

別に「やばい」の先を考える手段としてブログがいいとも思わない。考えられるのであればなんだっていいと思う。

 

大事なことは考えること。「やばい」で終わらせないことだ。

 

 

ヤバみ

ヤバみ