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司馬遼太郎「関ケ原」 ~何が人を動かすか~

今週のお題「読書の秋」

思うところがあって読んだので、書く。

 

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈上〉 (新潮文庫)

 

 

本の概要

歴史小説といえば、司馬遼太郎。司馬遼太郎といえば、歴史小説。

大して本を読まない人でも知っている、泣く子も黙る御名。恐ろしいほどの多作家で、「功名が辻」、「竜馬がゆく」、「坂の上の雲」など、映像化されている有名どころだけでもキリがないほどの作品群を生み出した。

この度、「関ケ原」が映画化されたこともあり、また巷でも知られる作品が増えたことだろう。

文庫にして、上・中・下の三冊。総ページ1,600ほど。寡読人間からすると信じられないほどの分量の言葉。僕なんか1600文字書くのにいっぱいいっぱいの人間である。平気で三冊分の小説を書き上げてしまう司馬遼太郎の頭の中に突っ込まれている途方も無いほどの知識に畏怖すらも感じる。

作品名の通り、この本は「関ケ原の戦い」として知られる天下分け目の大決戦について描いたものだ。実際の戦いの描写は最後の最後に200ページほど記されているだけで、それまでは関ケ原にて決戦が起こる前段、どういったうねりが世で起きていたのかが精緻に書かれている。

特に人物描写が上手い。いや、もはや上手いという言葉では表せないほど。

当時の武将たちのキャラが立っているのはもちろんのこと、藩の色、生い立ち、両親との関係、武将としての資質、さまざまな角度から、煩雑極まる登場人物達を一名一名切り出している。読んでいる方としてもごちゃごちゃにならずに進んでいける。

長編の割にとても読みやすかった。大した理解力のない人間が言うのだから間違いない。

 

関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈中〉 (新潮文庫)

 

 

関ケ原の戦いの概要

石田三成と徳川家康とが岐阜県関ケ原で巻き起こした大決戦のことである。両軍交えると20万人に匹敵する人数が関ケ原の大地にて合戦を行った。勝った方が天下を獲るという一応の名目がついていたため、天下分け目の大決戦と相成った次第に候。

 

何故、「天下分け目」なんていう物騒な騒ぎが起きたのか

全ての発端は豊臣秀吉である。稀代の権力者だった秀吉。全国津々浦々の大名を太平させた。

しかし、生きとし生けるもの寿命は必ずある。

秀吉が死ぬ。

死ぬとなったら後継ぎが必要である。秀吉は息子の秀頼をなんとか育てたい、守ってやりたいとの思いを残してこの世を去った。秀吉に匹敵する権力者(五大老)や側近たち(五奉行)は秀吉の遺言どおりに秀頼を擁立した。

はずがなかった。するわけなかった。

急先鋒が大老・家康である。五大老の筆頭として前田利家とともに豊臣政権の実力者であった家康。次は誰の世か。秀吉亡き後、関東を平らげている彼が黙って忠義を尽くすはずがなかった。家康は秀頼の後見人として働きまくるふりをして権力を振り回し、地盤を固め、秀頼になり替わって天下を治めようとした。当然の発想だと思う。

対して、五奉行の一人・石田治部少輔三成。彼はとにかく豊臣を守りたい。秀頼が天下を治めるべき、豊臣に恩があるのであれば秀吉亡き後も忠義を尽くすべき。道徳観念に根差した「べき」論をぶん回して家康に真っ向から反発した。

つまり、

  • 豊臣家存続の為の正義を掲げる石田三成
  • 豊臣家存続の為の正義を掲げたふりをして天下を狙う徳川家康

という二人の争いであった。

 

戦況

先述の通りなのだが、関ケ原での戦闘は火ぶたが切られた時点で勝負がある程度決していた側面がある。

当時の戦はまだ剣や槍が主力であった。そのため、「戦力=兵士の数」という等式が十分成り立つ。数の暴力。押し寄せた者勝ち。どちらが多くの大名を味方につけるか。多くの軍勢を先頭に送り込むかの勝負。

家康は250万石というとんでもない領地を手にしていたが、一方の三成はたったの19万石。全く歯が立たない。そこで三成はそこらじゅうの諸侯に家康の横暴を流布し、参戦を求めた。「家康ってこんな悪い奴なんだよ!みんな気づいて!豊臣への忠義を尽くして!」

家康も一人じゃ勝ち目がない。もちろん、たくさんの大名を味方につける。豊臣家にもっとも忠義をつくしているのは自分であると宣言し、全国最多石高の圧力をバックに仲間を増やし続けた。

家康の仲間には一つ大きな特徴があった。

アンチ三成党の存在である。

石田三成とは相当に人気がなかったらしい。理系で理論派、それでいてコミュニケーションがそんなにうまくない人間という印象を読んでいて受けた。お世辞とかクッション言葉とかが言えないタチらしい。持ち得る能力値を理数関係と戦術観に全部振っていたようで、その他の要素に関してはどうしようもないほどにウケが悪かった

世は戦国の名残を十分に残す。血を血で洗い、武を以て武を制していた時代に、理論や道徳は受け入れられる価値観でもなかった。そういった人間性にくわえ、秀吉時代からの禍根(北政所‐淀殿問題・朝鮮出兵時の武功もみ消し疑惑・そもそもの出自等)がスパイスとなり、三成は孤立していた。

 

仲間集めの結末

結論から言うと、関ケ原の戦いで三成は敗れる。仲間の裏切りのせいで。

形としては石田軍と徳川軍ともに9万人近くを擁して関ケ原にて対峙した。が、形だけであった。石田軍の内部では家康に寝返り工作をしていた大名が大変多くいた

「一応、石田軍ってことでが戦うんだけど、たまに家康軍の密偵とか受けちゃったりするよ。」

「石田軍のこんな機密情報教えちゃうね。」

「石田軍につくけど、僕ら戦わないから。」

こんな大名ばっかりだった。なので実算からすると、石田3万対徳川10万くらいの差があった。

戦闘はわずか半日にも満たない間に決着する。寝返りに次ぐ寝返りによって。

三成の求心力の無さ、徳川側の謀略の巧妙さ、原因としては、どちらも真であろう。

 

関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)

関ヶ原〈下〉 (新潮文庫)

 

 

何が人を動かすか

石田三成の失敗

何故三成は求心できなかったか。石田軍は空中分解したのか。

司馬遼太郎のフィルターを通して見た、天下分け目までの流れは、圧倒的に三成が正義だった。家康の横暴を摘発し、豊臣への忠義を忘れるなと叫んだ姿はヒーローそのものだった。

しかし、

正義のヒーローが勝てなかった関ヶ原。

正義のヒーローの人気がなかった関ヶ原。

石田軍空中分解の一番大きな原因が、三成が標榜した主義が当時の価値基準にマッチしていなかったことにあると考える

当時の諸侯は、家を守ることを第一に考えていた

しかし三成は豊臣家への忠義を説いた

拝読中、諸侯の心情が手に取るように分かった。一にも二にも、家の存続。自らを末代にせず、子々孫々の繁栄を目指す。大名家が大きくなればなるほどこの傾向が強い。最たるものが豊臣家だったわけだが。

関ケ原の戦いのような天下分け目の決戦において、敗れた方の軍勢は当然のごとく迫害される。大名本人は流罪か切腹。領地は減封か没収。家が絶える可能性が非常に高くなる。

では、家を守るためにどうするか。

どっちが勝ってもいい様にどっちにも保険をかけるのだ。

三成にはそれがわからなかった。

「家とかそういうのは二の次じゃん。道理で考えたら第一に豊臣への恩を返すよね!だから僕らは一致団結!」 

でも実は裏側で工作に次ぐ工作が行われている。400年後の読者からすると、三成の描くビジョンが滑稽にすら映った。三成は義に疑を投げかけなかったのだ。

 

徳川家康の成功

対し、家康は巧みである。

自分が250万石を背負っていて、誰だってそう簡単には口出しできない権力者だということを知っている。その力を振り回し、秀吉の時代に決められていた掟をガツガツ破って行く。

「ここ、秀吉の土地だけど秀吉が生きていたらきっと君に領地あげていたと思うから、この土地あげる。」って豊臣の領地を勝手に配りまくったり、「君の武には心が震える!ヤバい!ご褒美に徳川家の美女を嫁にあげちゃう!」って豊臣の時代に禁じられていた政略結婚をまとめまくったりして、着実に徳川ワールドを作っていった。

そう、まず、自分のことを好きになってもらおうとしたのだ。徳川を好いていたら得をするという刷り込みをしまくった

領地もらったり褒められたり嫁をもらって悪い気を起こす人はいない。たとえ豊臣の世で禁じられていたとしても、真に大切なのは家の保存。今の世を全力で生きて次の時代にパスをしたい大名たちにとっては、過去の掟はそこまで重要なことではなかったのだった。

つまり、

ご褒美をあげまくる。→喜ぶ諸侯はそれでよし。

しかし、訝しんだり義憤にかられる諸侯→義憤にかられて石田軍の肩を持ちながらも、家は残していきたい。→家康にも保険をかける。

といったように、どう転んでも家康に利が転がってくるように仕向けていたのだった。

 

人を動かすもの

それは価値観だ。

豊臣に対しての義は誰もが感じていたように思う。が、動乱の世がやってくるとわかりきっている中、「豊臣への義」は最も重要な価値観になりえなかった

つまり、人を動かすためには、「その時代・その人に望まれている価値観」を満たすことが重要である。これは誰にでもできることではない。「その時代・その人に望まれている価値観」を満たすことができる人は、そもそも満たすだけの「何か」を所有していなければならない。

徳川家康は大老の筆頭であり、圧倒的な土地と裁量権をもっていた。それが、当時の「何か」だった。だからこそ、誰もが媚びへつらわざるを得なかった。

そして、三成は何も持っていなかった。あったのは正義だけだった。正義は美しくて格好いいが、正義じゃ飯は食えない。だから、どう足掻いても野党になって盾突くしかなかった。寄らば大樹の陰を地で行く大名たちは三成の正義にはつかない。大樹の家康につく。決戦の準備段階から、三成勝利の芽はなかったのかもしれない。

 

 

 

 

今の世の中はどうだろうか。

一つの価値観として承認欲求がある。フェイスブックにしろ傘下のインスタにしろ、承認欲求を満たす土壌を与えて大きくなっていっている。また、企業達は情報を欲しがっている。そこにはマーケティングの鬼と化しているグーグル先生が的確かつ膨大なデータを注ぎ込む。そして儲かる。

また、政争なんてわかりやすい。関ケ原の戦いの前段を延々繰り返しているのが永田町である。

 

どうせ歴史は繰り返されると思って、関ケ原から読み始めた。たぶん何回か読み返さないと全貌をつかみきれないし、いろんな方向から見ないと偏るのは明らかなので一筋縄では行かなさそうではある。

一つの契機として、ゴリゴリ知識を補填していきたい。

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