徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

房総の祖母よ

ばあちゃんが亡くなった。母方のばあちゃん。僕にとって最後の祖父母が逝ったこととなる。
本日、日程的には予定通りの帰京なのだが、そうした事情もあり、全く違う意味の帰京となってしまった。傍らには母。千葉から北海道に嫁いだ母。今の心中を察するとなんとも言葉が出ない。


母の実家は千葉県の佐倉市にある。北海道からは、飛行機で2時間と、飛行場から電車で2時間。まずまず遠い。母もぴょんぴょん帰省することはできず、息子の夏休みと冬休みに合わせての帰省が多かった。少なくとも、僕が生まれてからはそうだ。夏冬合わせて、2週間ずつくらい帰っていた。

ばあちゃんのことは、佐倉にいるばあちゃんだから、佐倉のばあちゃんと呼んでいた。
佐倉のばあちゃんとの思い出をぼんやり浮かべる。


佐倉のばあちゃんは仕事人間だった。商人である。中小メーカーの経営者として、長く仕事をぶん回していた。
だから幼い頃、佐倉のばあちゃんと遊んだ記憶っていうのがほとんどない。多分外回りをしていたんだと思う。バチバチに働いていて家にいなかったのもそうだし、働いている内容もガキには理解できなかった。
遊んでもらってはいなかった分、とにかく褒められた。祖母の孫に対する素直な気持ちだったのだろう。
偉いねえ。
すごいねえ。
お利口だねえ。
大きくなったねえ。
年に二回、延べ一ヶ月会うだけの孫だ。そりゃ成長を感じただろう。大きくなったねえって言われただけ僕も大きくなったし、お利口だねえって言われる度にお利口になった。たまに言われすぎてうざったくもなった。


ぶんぶん仕事を振り回していた佐倉のばあちゃんだけど、代替わりの時期は必ずやって来る。僕の叔父に代替わりし、佐倉のばあちゃんは仕事の第一線から身を引くこととなる。祖父の死も重なったこともあったのだろう、僕が東京に出た頃から、ぐぅーっとばあちゃんは老けていった。


僕は、上京してからも年に一回か二回遊びに行くくらいだった。泊まってと一泊か二泊。むしろ子供の頃より佐倉のばあちゃんと会う時間は減った。
けど、僕の中での佐倉のばあちゃんの印象はどちらかというと弱り出してからの印象が強い。仕事仕事だったばあちゃんが一日中家にいる。泊まったら僕も傍らに一日中いる。2週間帰って遊びまわるよりも、上京してからのばあちゃんとの時間の方が濃厚だった。
息子でも娘でもなく、北海道で育って上京してきた孫。無責任にばあちゃんと触れ合える距離にいた。だから無責任に遊びに行って、無責任にばあちゃんと話した。
認知症がだいぶ深くなっていた。
何度も日にちを聞かれて、何度も答えた。お腹がすいてないかたくさん心配された。物の名前が出ないというばあちゃんにクロスワードを作って一緒に解いた。僕はびっくりするほどクロスワード作るのが苦手だった。ギターでも色々弾いてみた。ばあちゃんは「ふるさと」が好きだった。いい唄知ってるねえ。褒められた。「さーぎーりーきーゆるーみーなとへのー」って歌も好きだったけど、曲名が今わからない。なんとなく「いい孫」でいられる距離。都合がいい距離からばあちゃんを見ていた。


就職活動をしているときもばあちゃんと何度か電話したことを覚えている。雨の赤坂見附を歩いているときに突然電話がかかってきて、今丁度面接だったことを伝えた。
大変だねえ。
そうなんです、大変なんです。
笑顔で気持ちよく挨拶するんだよ。
わかったよー。がんばるよー。
ばあちゃんがえらく励ましてくれたその会社は速攻で落ちた。
雨の赤坂見附の件もそうなんだけど、果たしてなんで電話をかけてきたかわからないことが多々あった。しかし、電話がかかってきた時は認知症が進んでいるとは思えないほどの教訓を授けてくれたりもした。
商売はとにかく気持ちよくやりなさい。
取引先にはまず沿ってみなさい。
お得意様は大切にしなさい。
長く付き合っていける商売をしなさい。
そんなようなことを言われた記憶がある。錦糸町の街を徘徊しながら佐倉のばあちゃんの訓示を頂戴していた残像が脳裏に残っている。


さて、いよいよばあちゃんが苦しくなった。半年ほど前のことだ。のっぴきならない様子になってきたため、介護用のベッドやら何やら整えると、ばあちゃんは寝付いた。
コロコロと右肩下がりに転がっていた体調が、急こう配に変わった。
たまに来る孫である。会う度にばあちゃんは弱った。僕は無責任を続けた。わかってんだかわかってないんだかわからないほどになったばあちゃんだったが、この際、孫とわかるかわからないかはどうでもよかった。雰囲気で話した。やっぱりギターは弾いた。この9月に会った時はまだ「ふるさと」を歌ったような記憶がある。


食欲が落ち、痩せた。全体力を使って心臓を動かしていると看護師さんから聞いた。寝させてあげようと思った。話すより、寝て、心臓を動かした方がいいと思った。
ばあちゃんは安らかにスースー寝ていたけど、ある種の壮絶さがそこにはあった。生きている。生きていくということは、どれだけ大変なことか。心臓を動かす、体温を維持する。それは当たり前のことじゃなかった。
ちょっと距離のある孫だからそんなふうに考えられたのだろう。介護と看護の真っ只中は、きっと甘っちょろい世界じゃない。なんとなく察しがついた。


そうして、いよいよである。
よく頑張ったよね。よく頑張った。訃報が届いて、互いに言い聞かせる父と母。僕は何も言えなかった。何か言葉を発すると自分の言葉に泣きそうになるからやめた。
まだ顔は見ていない。父方の祖母の最期の時、会いに行かないですごく後悔をしたので、今回はやれるだけきっちり弔おうと思う。