徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

通夜

一番ばあちゃんに見せてやりたかった。

葬式なんていくつも参列したことはない。ど素人である。まして、本当に近しい親族の葬式は今回が初めてだった。不義理極まり無いことであるが。

素人目に、ばあちゃんを悼む列は随分と長かったように感じた。次から次へと焼香をしていった。ばあちゃんのことを悼み、弔意がある人がこれだけいるということが、ひとえに嬉しかった。感動した。


よく、芸能人の葬式にとてつもない数のファンが参列する光景を見る。尾崎豊なんか凄かったって聞く。

数で言えば、芸能人には到底敵わない。人気とか、遺された者が感じる心の空虚さでいっても、もしかしたら敵わないかもしれない。

でも、ただひとつ。

うちのばあちゃんは今日参列した人たち一人一人に対して情を分けた。面と向かって、膝を突き合わせて、自ら炊いたご飯を食べさせた。

食べていきなよ。いいから座んなさいよ。ケチ臭いこと言いなさんなよ、お土産に持って帰んなよ。

お節介に次ぐお節介。ばあちゃんは誰しものヒロインではなく、一人一人のお母さん、一人一人のおばあちゃんであり続けた。

そして今日、ばあちゃんの子供達、ばあちゃんの孫達が総出で見送った。各々がばあちゃんと育んだ個人的な情を持ち合わせて、とっても大きな式となった。

その情のきめ細やかさたるや、参列者の数だけでは測れないものがあるだろう。


そもそも太陽のような人ではない。底抜けに明るい性格でもなかったように思うし、笑いのセンスが際立ってたりしていた訳でも無いと思う。

ただ何が凄かったって、それは他人のお母さん然とする才能だ。きっとそうだ。

心の門戸を開け放って、入るも出て行くも自由。入ってくれた人には最大限の気持ちを持って歓待する。次、来るも来ないも、また、自由。そんな懐の広さにみんな甘えて、母代わり祖母代わりにしたのだろう。無い袖も振って歓待してたようだから本当の近親者は大変だったようだけれども。


人の死や葬式ってだいたいこんなもんだって言われたらそれまでなのだが、祖母の死・葬儀を体感している中で、改めてどう生きていったらいいものかを考えさせられる。

自らの幸せと、分け与える幸せ。果たして幸せは無限に増えるものか、それとも、総量は一定で、一方に与えるともう一方は損なわれるものか。幸せに逝ける生き方ってなんだ。死んだ後の世界がうまく回る生き方はどうだ。

悔しいかな、総取りはできないだろう。


少なくとも、ばあちゃんは途轍もなく生きた。生きて、人を巡り会わせて、人に好かれた。本人のやりたいように、幸せを分け与えた。それがよくわかる葬儀だった。

とかく美しい場面ばかりが際立つのが人間の最期なのかもしれない。だとしても、いい最期だ。


またおいでね。待ってるかんね。次はいつ来るんだい。来る前に連絡よこしなよ。お小遣い用意してるからね。ね。わかった?ね。

ばあちゃんの声がこびり付いている。

僕も僕なりに精一杯生きて、それなりになった後、一本連絡入れてお小遣い貰いに会いにいこうと思う。

倶会一処。また会いましょう。