徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

告別式

人が死してのしきたりをあらかた終えた。ばあちゃんは一先ず、常世に別れを告げた。僕らもばあちゃんに改めて別れを告げた。

棺に生前好きだった食べ物や道具を入れ、写真を入れ、花を添え、みんなで棺を閉めた。焼き場に行って、無機質な炉に棺が収められ、蓋が閉まった。この時点で、なんというか、物体としての人がいよいよ無くなるのだなと感じた。精進落としをして、しばらく待っているうちに、ばあちゃんは当たり前のように骨になっていた。

 

結局、僕らが行き着く先は骨である。

どんな生き方をしても骨だ。

この虚しさ。人が死ぬということはどういうことか。遺された者からしたらそれは後悔だったり、後悔に根ざした寂しさや悲しさであるのだが、死んだ本人からしたら、骨になる以外のなんでもない。

パソコンの前でYouTube見てても骨になるし、夜の街に繰り出して酒池肉林を貪り浴びても骨になる。眠るのが大好きでも骨になるし、昼夜がないほどに働いても骨になる。活字を舐めるように本を読んでも骨になるし、インスタグラムを眺め続けても骨になる。

 

ばあちゃんの通夜を通して、彼女の人への尽くし方を再度実感したのは、昨日感傷の畔りに佇みながら散々書いた。

再三再四となるが、ばあちゃんはその人生を使って数多くの縁を結んだ。ばあちゃんを悼む人々は、僕ら親族とも懇意にしているが、ばあちゃんがいなかったらその縁はなかった。

人に尽くした人生だったのだろう。

 

ばあちゃんがそれを望んでしていたのか、天性の尽くし屋だったのかは、甚だわからない。彼女の人生は、養子として今の家にもらわれて来たところから始まると聞いている。無意識の寂しさをずっと抱え続けて、その結果、人にはそんな思いをさせたくないと尽くし屋になった…なんて推測もできなくないが、ばあちゃんがいなくなった今、真実はどうしようもない闇の中。

しかし、最期のお別れにくる皆の姿からして、ばあちゃんが望んでいたかどうかに関わらず、一つの生き方として立派なものだったのだろうと思う。

 

とにかく、僕らは死ぬ。骨になる。

人の終点を見て、自分の終点を感じた。どうせ僕も骨になる。では一体、骨になるまでに何ができるのか、何をしなければならないのか。僕は僕の人生を使って、本当のところ何をしたいのか。考えなければならないのはこれだ。最大のテーマだ。

高校に入る時に最終学歴と名乗っている大学に入るとは思っていなかったし、大学に入る時、自分が今の会社に勤めていることなんて想像もしていなかった。大学3年次の取ってつけた哲学を振り回してたどり着いた会社が、ここだった。そして割と安穏と働いている。目先の仕事に一喜一憂。目先の上司の反応に一喜一憂。同僚とまた一喜一憂。

いよいよ骨になる事実が目の前にある。

節目節目で取ってつけた哲学によって生きるのは少し寂しい。

よく考えなければならない。何をしたいのかは漠然と考えにあるが、自分に何ができて何ができないのかがわからない。何がしたいのかをもっと明確にして、何ができるのか、何をして行くのかを見定めなければならない。そのためにはたくさん知らないといけない。なるたけ本を読もうとしてきた最近だけれども、より読もうと思う。乱読でもいい。アマゾンに誘われるままにでもいい。たくさんの考えに触れて、しっかりと見極める。言うが易し。易しと清。

 

どうしたって、結局は骨。骨である。めっちゃエモったらしい気持ちでパタパタキーボード叩いてエンターキーをタンタンタンタン打ち鳴らしていても、この指さえ骨。

せっかく骨になるならなんでもしよう。死ぬこと以外はかすり傷。その通りだ。

そんな気持ちにさせられた告別式ではありましたが、果たして効果がいつまで続くやら知らない。こんな気持ちとも告別するかもしれない。

そうはならないでいたい。