徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

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悲しみの乗り越え方

ばあちゃんの死から、二週間。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

僕は見事に日常を取り戻している。ばあちゃんとの思い出がよぎって唐突にダメになってしまうことはないし、日々のどこかに空虚を感じることも今のところはない。それがいいことなのか、悪いことなのかは、なんともいえない。

離れて暮らしていたこともあり、ある程度距離を置いて死を見つめられているところもあるだろう。一方、ばあちゃんに育てられたと言っても過言じゃない従兄弟はグズグズである。感情の根っこを掴まれてブンブン振り回されているような崩れ具合である。

多分、それは母も、叔父も、伯母も。

 

夢にでも出ておいでよ。

幽霊になってでも出ておいでよ。

どうやっても消化できない感情に晒された時、僕たちは神様に祈る。神秘を信じる。あらゆる物事、あらゆる偶然に意味を持たせる。

きっとばあちゃんがそうしたんだ。

この偶然はばあちゃんの仕業かもしれない。

 

カジュアルなレベルでいうと、女子会で失恋の話を延々と繰り返して、それを消化して行くのと同じように、僕らは悲しみに意味を持たせて消化して行く。悲しみの影に形を持たせて、悲しみを把握し、自らを納得させて行く。

「2度と会えない」という恐ろしい事実に僕らが対応しうる唯一の手段が、神秘であり、スピリチュアルなのだろう。

多分それは、悲しみに蓋をして見ないフリをするよりは余程健全な悲しみへの向き合い方だ。神秘に頼ってでも悲しみと向き合う姿勢は、友達の答案用紙に頼ってでも単位を取りたい大学生に同じで、悲しみに蓋をして目を逸らす姿勢は、山積みの課題を横目に麻雀ばっかりしている大学生に同じである。どちらが健全かは一目瞭然。

 

父ちゃんも死ぬし母ちゃんも死ぬ。

いつかはやってくる2度と会えない瞬間に、僕はきっと心底夢を見たがるだろうし、偶然のいたずらに意味を持たせようとするだろう。虚空に言葉を投げては、返ってくることがない返事を待ち、きっとこんなこと言うんだろうなって想像して、自分を納得させる。そんな未来が来る。

僕はまだ、藁にでもすがりつきたい悲しみと出会っていない。

必ず訪れるその時に、きちっと悲しみに向き合いたい。ダメダメになってでも、神秘と偶然にすがりついてでも、悲しみを受け入れていきたい。

 

従兄弟の電話越しの涙声は、悲しみと取っ組み合っている喧騒であり、空虚を乗り越えようと食いしばる呻き声だった。

その声を聞いて、思ったことを書いた。