徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

飢えに生かされたい

今僕はお腹が空いている。仕事終わり、駅のホーム。めっきり風が冷たくなった霜月の空の下、ひたすらにお腹が空いている。


空腹は断食時間に比例するのだろうか。

本格的な断食は胃腸炎くらいでしかしたことがないからわからないのだが、ある程度規則的にご飯を食べて、胃腸を動かしていた方が強烈に空腹を意識する。


それが今である。


寒さも手伝ってか、切ない気持ちがむくむくと首をもたげ、空腹に油を注ぐ。寒い、お腹すいた、切ない。

するとどうした、頭の中はいち早くご飯を食べたい衝動でいっぱいになる。


駅に着いたらもう外食にしてしまおう。作るのやめよう。


そんな考えに埋め尽くされる。



僕は知っている。

この流れで外食の選択をすると、大抵いつも行く中華料理屋で750円の夜定食を頼み、毎回思いのほか量が多いなと感じながら、食べ終わる頃には家でゆっくり食べればよかったと少し後悔の念に駆られる。

間違いなく、このパターンである。


それでも、寒さと空腹に急襲された脳裏には矢先のことしか浮かばない。

目を閉じれば億千の星ならぬ、目を閉じれば特製の飯。本当は別に特製でもなんでもない。韻だけ踏みたかった。



この、どうにもならない欲望を飼い馴らせたなら、猛烈に動ける人になるのではないかと思う。

常時空腹。

食事を恋い焦がれるパッションをそのまま人生に活かせたのなら。



この間アマゾンプライムで「スラムドッグ・ミリオネア」を観た。

決して裕福ではない、スラムの片隅で生きる少年たちは、常時飢えている上にカネへの執着も強い。死に物狂いで生きて、どんな手段を使っても飯を食い、カネを得ようとする。


とかく満たされがちな日本で、あのハングリー精神を持ち続けられる人がどれほどいるかと思った。

少なくとも、自分は安穏と生きている。死ぬ気になったらきっとあらゆる手段を講じてカネを稼ぎに行くだろう。それをしないのは、ぬるいお湯が心地いいからだ。

死に物狂いさに大きく欠ける。



しかし、今。

僕はハングリーだ。ある種死に物狂いで飯のことを考えている。

例えば手持ちのお金がなかったとすれば家に帰って作るだろうし、家にすら何もなければお金をおろしてでも何かを食べに行くだろう。

もしお金すらも尽きていたら誰かを頼るかもしれない。



ソコソコのお金をもらい、ソコソコの休日があり、ソコソコの暮らしをする。

どれもソコソコである現状は、カネや時間に猛烈な飢えを覚えることがない。



牙を抜かれている。本当にそう思う。

生理的な飢えのせいで食物への牙が剥き出しになっている今だからこそ、日頃の骨抜き具合が鮮明である。

それがいいのか、それでいいのか。

こんな危機感もご飯食べたら忘れんだよね。