徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

炒飯もどき

今週のお題「得意料理」

この世に正確な円は存在しないが、円というと誰も様々な円を想起する。

そんなところからイデアを思いついたのがプラトンだった。個別の「もの」だけでなく、「物自体」を司る何か。それがイデアであり、興じてイデア界イデア論と発展していった。

 

毎日毎日弁当を作る身。得意料理の一つや二つあるのだが、炒めるしか脳がないあんぽんたん。弁当の中身といえば生姜焼きか、親子丼か、炒飯。大抵がこのローテーションである。

つまり、以上が僕の得意料理と言える。

中でも作る頻度が高いのが、炒飯である。

 

炒飯が便利なところといえば、一段で済む点にある。

僕はの弁当は仕切りというものを持たない。炒めてドン!ご飯詰めてドン!の二段弁当。すると、洗い物の時も2個分洗わねばならない。極めて面倒臭い。

そこで炒飯。あいつは便利だ。おかず兼主食という、完璧な存在として君臨している。さらに何を入れても炒飯として成り立つという長所も持つ。

高菜、生姜、ウインナー、卵、肉、玉ねぎ、人参、レタス、海鮮。

何が入ろうと、何が抜けようと、炒飯は炒飯。そんな側面がある。

 

便利使いをしまくっていた炒飯だが、はたと気がついた。僕が今食べているのは、作っているのは、果たして炒飯なのだろうか。確かに炒めている飯ではある。炒飯には違いない。でもよくあるパラパラな炒飯とは一線も二線も画する。玉ねぎから出た水分、冷凍していた人参から出た水分、謎の水分がどこからともなく湧いてきて、気づけばべちゃべちゃな雑炊よりの炒飯が出来上がる日もある。

 

でも僕はそれすらも炒飯と言って持って行っている。

果たして、何を持って炒飯というのか。炒飯のイデアとは。

 

しばらく考えて、諦めた。

当方、炒飯のことが熱烈に好きな炒飯マニアではない。生きるため仕方なしに炒飯を作っている退っ引き炒飯マンである。炒飯のイデアを探すほどのフリークにはなれないのである。

 

その瞬間から、僕の得意料理は炒飯もどきとなった。

炒飯ではない。似て非なるもの。

この論理からいくと割と世の中の全ての炒飯が炒飯もどきになりうる。炒飯を食べているようで炒飯もどきを食していたりする。カレーを作っていたつもりがカレーもどきを作っている場合だってある。

むしろ、イデアの世界から見ると、現世にあるもの全てがもどきだ。もどいてしかいない。そのものとして話題に上げることの方がおこがましい。

すなわち、「得意料理」というトピックの下に集まるであろうたくさんの料理たちは全て、「〇〇もどき」でしかない。

僕の炒飯が炒飯もどきであるように、である。

 

 

炒飯炒飯言ってると本当に炒飯食べたくなってきた。

 

 

どうでもいいけど、炒飯のイデアを定義するならこれだと思う。心底美味い。