徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

商売と数字

商売とは自身と他者に利益を生み出す行為である。

顧客には、顧客が欲しいサービスを提供する。

手前では、100円売って10円儲かる商売を11円儲かる商売にしていく。100円しか売れていなかったものを150円、200円と売れるようにしていく。

財務とか会計とか、そういった面に明るい人たちは、財務帳票をみて、キャッシュフローがどうこうと細かいところまで読み解けるのだろうが、現場で眼前の商売に取り憑かれている僕はそこまでの知識がない。学んでもいない。怠惰。

 

たくさん売るためにはどうすればいいか考えて、値入れ率をなるたけよくして、身の回りの経費を節約する。

これが僕にできうる商売。

 

サラリーマンとして薄給を食んでいる身。

生活の糧の出所は、会社の利益

であるからして、僕たちは当然のように会社の売上と利益とを把握しておかなければならない。手前の商売のことだろう、手前がわかっていなくてどうする。

今いくら売れてるから、いくらくらいを目標にしたい。これだけ売っても手元に少ししか残らないから、もっと経費を詰めたい。

現状を知らないことには建設的な話ができないのである。

 

つまり、数字への意識を強く持とうね!と言った話になる。

そして弊社ではこれができない人が多いと、社員教育に従事する人は嘆く。

一人一人が商売人となって云々。一人一人が経営マインドを云々。

ユニクロかと。

 

 

しかしこれ、どだい無理な話だと思うわけだ。

少なくとも、会社が押し付けたところで、社員は我が社の利益・売上を我が身のように考えられるようになるとは思えない。

 

例えば、冬の日の朝。猛烈な寒さで起きたとする。

気温が気になるだろう。この寒さは一体何度なんだ。そして、テレビをつける。

「今朝は今季一番の冷え込み。最低気温は…」

そんな話を聞いて、納得する。

 

この時の僕たちは驚くほどスムーズに数字を確認する

何故なら寒いからだ。「寒い」という強烈な実感。それが数字の確認に走らせる。

 

 

再三だが、サラリーマンとして薄給を食んでいる身。サラリーマンはとにかく守られている。守られる存在として、法律にも規定されている。

さらに組合が強ければ、会社の業績がどうあれ、給料は保証される。

結局、朝の猛烈な寒さなんかを、実感しないまま生きていけてしまう。

春や秋の適温の日の気温を特に気にしないように。

 

すると会社員が会社の業績を切に考える時というのはいつなのだろう。

例えば、会社が傾きかけたときとか、会社の株を買った時、経営する身になった時。

食いっぱぐれるかもしれない

配当が上がるかもしれない

沢山の株主の矢面に立って説明しないといけない

そんな身に迫る思いを抱くと、間違いなく数字を気にする。知らずにはいられなくなる。

 

そうではない、安穏市井のサラリーマンはどうすればいいのか。

これは、目の前の毛細血管の一部のような仕事を全力でやるしかない。

自分がいなくても勝手に回っている商売に体をねじ込んで、さも自分が回しているかのように振る舞うのだ。

可能な限り面白がって、可能な限りの工夫をもって取り組んだ仕事は、いくら売れていくのか必ず気になる。

その売上が、どの程度会社に貢献しているのかと、一生懸命大きな母体に食らいつく。

幾ばくか発想の飛躍が必要だが。

 

 

当事者意識をもって…

と語るのは簡単だし、瞬間的に感化されるのも簡単だ。

しかし、持続的な思考をするには自らの努力が不可欠となる。極端な話、いい加減どうにもならなかったら、会社もボーナスカットとかすればいいと思う。

止むに止まれず働くだろう。必死こくだろう。

 

身に迫る危機が起こるか、身が潤う事が起こるか、真剣にやるか。

切実になれる道は、どれかしかない。

真剣にやるのが望ましいが、気合いがいる。覚悟がいる。

どうせやるなら気合い入れてやりたいものだし、世の中そうあるべきだと思う。