徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

ここ最近考えていることについて

ほとんど具体的なことは言わないし、言えない。

けど、このブログというものを書き続けている中で、拒食嘔吐気味になっていた反面、本当に嘔吐したいことを吐き出せてなかった感じがしていたので、なんとか書いていきたい。

 

人生を何にぶっこんでいくか

ばあちゃんが死んだことが一つ大きかった。

通夜と葬式でばあちゃんがどれだけ頑張って生きたかがよくわかった。彼女の人生の多くは家業の鉄工所のぶん回しに彩られていて、その関係の人たちが大挙して押し寄せた。つまり、ばあちゃんは家業に人生をぶっこんだということとなる。その家業も、山や谷、時代の追い風や向かい風もあったけど、それなりに誰かの力を借りてやりきってきた。乗り切って来れた。

また、およそ三年前に中四国を回って自分のルーツを探したこと。これも大きい。

肉親というか、遠い先祖に当たる人たちが北海道という未開の地に夢と希望を持って郷里を飛び出してきたという事実。そしてうまく北海道に根付いて、事業を起こしていった事実。

翻って、自分も何かできる気になるし、やっていかなければならない気持ちになる。

色々な人に自分のルーツを探した話をするが、その度に誰よりも心を揺さぶられているのは僕だ。滋賀の田んぼに囲まれて、沼島の絶海のほとりで、北海道を夢見た人間の子孫なんだと自らを奮い立たせた。その景色が今でも現れる。

20代を折り返した程度の人生だが、自分にどれだけ時間が余っているか知れない。

新聞を読んで、自分も何かできるかもしれないと思えるのはいつまでだろうか。やれるうちにやらないと絶対後悔する。

 

だから何に人生を賭けていくのか

ほんと具体的に何ができるのかって話。これが大事なのにも関わらず、ビビるくらいすっからかんでビビる。ビビり散らかす。

しかし今商売をしていて、地べたを持って、店舗で商売していくスタイルの強みと弱みとはなんとなく見えた気がしている。

アマゾンエフェクトアマゾンエフェクトと異口同音に賢そうな人たちが叫ぶ。

家から出ない・財布を出さない・現金を払わないスタイルの商売の強みというのは、ひとえに便利さである。びっくりするくらい便利。あと、現金を払わないから購入までの障壁が一つ減る。ある種の買い物してない感を味わえるために、ポンポン買い物をしてくれる。財布を出し渋る行為がない。脳みそストップショッピングである。

重ね重ね、びっくりするくらい便利なネットショップ略してアマゾンだが、実際に地べたを持って店舗を持って商売している連中に勝てない点があるとすれば、それは実体験である。当たり前だけど。

最近はインバウンドもコト消費に変化してきていると、これまた異口同音に賢そうな人たちが叫んでいる。国内消費も大概同じだろう。旅行客は増えているようだし、相変わらずUSJは絶好調。TDLも続く。そんな中我らが北海道の翼、AIR DOは人手不足で欠航が相次いでいて世も末感を禁じ得ないのだけれど、とりあえず頑張れって思う。

もので言えば化粧品がすごい。

外国人・日本人問わず、百貨店やドラッグストアで化粧品がバカ売れしててウハウハだというのは、化粧品が体験できる消費財かつ美容という女性の本能を揺さぶる代物だからだ。「本能レベルで求める、コトとして消費できるモノ」である。マジで金のなる木。野郎どもが本能で風俗店に出入りするのと同様に、女性は化粧品を求める。表現はクズだけど、どちらも金のなる木。そりゃ儲かるわ。

逆に、日用消耗品はガンガンネットショップで買うようになる。物自体の価値はどこで買っても一緒なので、使い心地を知っているものとか食べ心地・飲み心地を知っているものはネットの範疇。何しろ便利だから。ある種化粧品も「これ」と決まればネットに流れていくのだけど、美への欲求は決め打ちできないらしい。ガンガンみんな試しメイク(タッチアップっていうっぽい)しにいく。で、買う。

結局のところ、今のネットと店舗との関係は

「想像の範疇=ネット、想像の外=店舗」と表せる。

ネットとしたら、どれだけ個人を相手にしたマーケティングを詰めていけるか(オススメの動画機能やあなたへのおすすめ商品機能)に注力しているし、店舗はどんな体験をしてもらえるか(顧客体験型のイベント、それを生かした商品紹介)に注力している。

顧客個人のペルソナを仮定する正確さはネットに軍配があがるが、満塁ホームランのような、こんな商品買おうと思ってなかったけどがっつり心奪われて買っちゃった体験を創出できるのは店舗である。一長一短。

 

さて、僕も人生を賭けて商売はしていく気でいる。

で、何を使って、何を売って何を売らなくて、どこにいるのをやめてどこで生きていくのか。これを選ぶこととなる。

僕にも家業がある。

ひいじいちゃんが北海道に入植してきてから続く本屋が僕の家だ。

小学三年生の頃書いた作文からして家業を継ぐとしたためていたくらいだから、余程教育の仕方がよかったのだろう。実家大好き人間である。

というか、実家・地元が好きでたまらないというよりは、ひいじいちゃんが起こした店を屋号をそう簡単に潰しちゃならないだろうという気持ちでいる。今は100年も前から続いている本屋という形態をとっているが、別にそれがどういう方法であってもうちの店が続いていけばそれでいい。本は売りやすいだろうけども。

じゃあ、本は本として、手前の代で何を為すのか。

これをなんとも定めかねている。

 

一つ、可能性を感じているのは、文化を興すこと。文化商売。

年の瀬になってお歳暮のCMがよく流れる。僕もあの商戦に与している。現場にいて思うのは、文化が持つ購買意欲の高さだ。

お歳暮に関してはもはや購買行動とすら思っていない人が多い。

「お歳暮は送るもの。お付き合いとして不可欠なもの。」そういった方たちがたくさんいらっしゃって、おかげで僕らお歳暮に関わる人間が少しずつ食べていける。贈る人よし、貰う人よし、メーカーよし、仲介業者よし。配送業者は最近苦しいけれど、概ねみんな嬉しい商売である。

さらに、文化には多くの人が参加する。人が集まってこその文化。

パンクバンドのライブで、アーティストが客に向かってダイブするのを見たことがあるだろう。あれは、たくさんの人が支えてくれる前提で飛び込む。仮に一人が支えてくれなくても、大密集した人間がそれとなく支える。大コケがなくなるのだ。

チリツモの究極系のような売れ方。それが文化稼業。

自社的にもある程度売上の見込みが立つメリットもあれば、多くの人のお金を掘り起こすメリットもある。

最近はやりのビットコイン。ビットコインを稼ぐ(増やす)ことをマイニングと表現するのは有名だろう。「掘り起こす」という意味の単語となる。実際は暗号を解いてブロックチェーンを繋げる行為のようなんだけど、「掘り起こす」という単語はすごくいいと思う。

一人の100万円と100万人の一円。額は一緒でも後者の方が効果としては大きい。100万人が一気に手を引くことも考えにくければ、100万人のうちの50万人が五円出してもいいかなって思う可能性がある。100万人の財布を掘り起こす。それが文化だ。

何かしらそういった商売を企てたいんだけど、具体的な話が全く思いつかない。

なんかないかなーって考えながら生きてたらきっと不意に何かを捕まえられると信じて生きてる。真っ最中である。

 

全然シラフなんだけどめっちゃ眠いから一旦筆を置いて明日の朝にでも恥ずかしがってみる。では。