徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

お歳暮商戦について、多少携わっている身として考えていること

お歳暮を贈られたことがあるでしょうか。

僕はあります。ほんの数回ですが。

 

縁あって、お仕事の一環でお歳暮に携わることと相成っている。

セイボといえば聖母マリア。キリスト系の幼稚園をでた身としては、ナザレの聖母、ベツレヘムの馬小屋を想起してしまいがちなセイボであるが、今は全く関係のない話。

 

 

お歳暮とは

小売り各社がここぞと声を大にする「お歳暮商戦」

つまり何なのかというと、「年に一度の大プレゼント交換会」である。

年末のご挨拶として、お世話になった方やご近所さん、遠方の親戚なんかに品物を贈る。多くの場合はお互いに贈り合う。

元を正せば先祖の霊に供物を捧げた御霊祭の名残が云々ということらしいが、この際どうでもいい。

 

 

お歳暮が苦しい

今でも年に一度(中元も合わせると年に2度)のプレゼント交換会として、存在感を見せるお歳暮ではあるが、ここ数年、露骨にお歳暮の受注が減っている。

売り上げ規模から行っても、縮小傾向にあることは間違いない。

その昔は1兆円を優に超える市場だったようだが、もう1兆円には届かない市場となった。

 

www.yano.co.jp

 

こんな素敵な調査がありました。*1

しかし、足元の売り上げも本当に落ちてる。

 

なぜ減っているか。当たり前のようにそれは、贈り、贈られる人の減少による。

つまり、プレゼント交換の輪の中から抜けていく人が多く、新規に参加してくれる人が少ない。

「文化の希薄化」と言ってしまえばそれまでなんですがしかし、それじゃ商売が面白くないだろう。

お歳暮に関わる身としては、やっぱりなんとかしてプレゼント交換会の輪を広げていきたい。

じゃあどうすればいいのか。

頭のいい人たちが色々と策を講じているようなんだけれども、市井の人として、貧の者として、ぼんやり考えていることをまとめてみたい。

 

 

なぜお歳暮を贈らなくなっているのか

なんでなのか。

考えるに、原因はいくつかある。

  • お歳暮を贈っていた人たちの高齢化(贈り主・贈り先の減少)
  • 贈ったら贈り返さなきゃいけない煩わしさからの逃避(贈り合うのはもう止めにしましょう合意の締結)
  • 年一とかではなく、カジュアルに繋がれるようになってしまった(SNSの隆盛)
  • モノが満ち足りた(物欲から承認欲へ)

どんなもんでしょうか。

 

お歳暮をタグ付けすると、多分「しきたり」とか「文化」とかだろう。

脈々と続いてきた文化やしきたりがここ最近でめちゃくそスクラップ&ビルドされている。

ひな祭り、端午の節句あたりも、少子化をの影響をもろに食らっている。

同じように、歳暮も高齢化の影響が直撃している。お歳暮のボリュームゾーンがこぞって高齢化している。自然と、母数が減っていく。

文化の担い手・文化の主役の母数が減ると、やっぱり文化の存続って厳しい。

 

また、贈り贈られなきゃいけないプレッシャーや煩わしさもあろう。

お祝いのお返しとかも、なんとなく頭の片隅にこびりついて離れない。

「やらなきゃいけないこと」が日常に発生すると、僕らは息苦しさを覚える。

できる限り快適な生活をと思うばかり、お歳暮を贈らなくなる。

お互いにもう贈るのやめましょう協定を結んだり、フェードアウトしたり、

手を替え品を替えお歳暮の総数を減らそうとする。

 

さらにはご挨拶が簡単にできるようになってしまった。

手紙の代わりのライン、お歳暮の代わりの「スタンプを贈る」

そんな文化が出て来ているだかいないだか。カジュアルに繋がれる・ゆるく繋がれる世界に堅苦しいご挨拶は煩わしいだけのでしょうか。

 

また、結局のところモノが満ち足りている世の中だとも言えるだろう。

昔はモノが価値の権化として君臨していたけれど、今は写真だとか体験だとか、モノじゃないものが価値を高めて来ている。モノより思い出とはよく言ったものだ。

するとプレゼント交換会という仕組み自体が前時代的に見られるのかもしれない。

いや、モノは足りてるし。欲しいものだけ買えればいいし。

そんな声が聞こえる。

 

 

お歳暮の売上を増やすために

簡単な話で、売上を増やすためには以下しかない。

  1. 贈る人を増やす(客数を増やす)
  2. 贈り先を増やす(客単価を上げる)
  3. 贈りものの単価を上げる(これも客単価を上げる)

売上が客数と客単価の掛け算で成り立っている以上、それ以外の選択肢はない。

贈り物の単価を上げるというのは、人と人との関わりの深さに委ねられてしまうので、お歳暮を提供する側とするとどうにもしようがない。

すると、我々の介在する余地があるのは、

贈る人を増やす・贈り先を増やすの二点になる。

お歳暮がプレゼント交換会の特性を持っている以上、この二点はほぼ同義だ。プレゼント交換会のプレイヤーを増やす。そういうことである。

 

 

お歳暮の牌をどう増やすか

贈る人を増やしたい、プレゼント交換会の参加者を増やしたい、と考えたとき、顧客像として二つの存在が仮定される。

  • お歳暮文化圏にいる人
  • 非お歳暮文化圏にいる人

お歳暮文化圏にいる人

つまり、すでにお歳暮を送る習慣がある人。プレゼント交換をしあっている人。

変な話、この層は黙っていてもお歳暮を贈る。どこから贈るかの違いはあれど、贈る。

しかし一方、

非お歳暮文化圏にいる人

この層は贈らない。年の瀬になったらお歳暮を贈ろうというアタマがそもそもない。

 

その上で会社規模で、お歳暮の牌を増やすためには以下が考えられる。

  • 他の会社から贈っていた人を我が社に引き寄せてくる(お歳暮文化圏内でのシェア増加)
  • これまでお歳暮を送っていなかった人が贈るように仕向ける(非お歳暮文化圏の開拓)

 

競合他社とのつばぜり合いだけ考えると、他社からどうやって顧客をぶんどってくるかというのは大切な事項だろう。

百貨店・スーパー各社がこぞって乗り換えキャンペーンを企てている。

だが結局、それは水が漏れている桶から各社が手酌で水を掬っているようなもので、全体の母数としての顧客は減るばかりだ。

だからなんとしても、非お歳暮文化圏から顧客を引っ張ってこなくてはならない。

お歳暮を新たに贈る人を増やさないと、そのうち死に市場になるのは見えている。

 

 

成功事例としてのハロウィン

あの騒ぎはどうしたものかと思う。本当にすごいことになった。

Facebook、Twitter、Instagramのインフラ化に美しいまでに乗じた文化隆盛。

消費マインドがどうこうとか、個人消費が低迷しているとか、ネガ要素をぶっ飛ばすだけの乱痴気がそこにある。

ハロウィンにおける消費というのは、歳暮とは真逆に位置すると考えている。

歳暮を、特定の人ににモノを贈る行為とすれば、

ハロウィンは、不特定の人と仮装(コト)をする行為。

歳暮が一対一の物々交換であるとすれば、

ハロウィンは、不特定多数との事象共有。

ある程度モノが満ち足りて、全国津々浦々どこでも同じものが手に入るようになった

物欲が踊り場を迎えた世の中で、上位次元の欲求として台頭した承認欲求

ハロウィンではモノを贈るでもなく、仮装した自分の姿をSNSでの披露し、承認欲求が満たされている。流行るわけだ。

すでにハロウィンの消費傾向も変化していて、2015年を潮目にフルチューン仮装から部分仮装へとカジュアル化しているらしい。

文化の変遷があまりにも早い。

だが、どちらにせよしばらくはこの承認欲求をどう満たしていくかが大衆消費をくすぐるキーにはなると思う。

 

 

具体的方策として

まず考えなければならないのは、お歳暮という文脈での贈り物がどこまで通用するかである。

上記の通り、モノへの欲求よりも承認欲求が優位になっている世の中で、モノを贈るシステムが通じるのか。

先出の調査にて、中元歳暮の消費は落ち込んでいる反面、ギフト全体の消費は上昇傾向にあると出ている。カジュアルなギフトは好調らしい。

少なくとも、モノは贈られているようである。

バレンタインデーしかり、父の日母の日しかり。

 

なぜカジュアルなギフトは好調なのだろうか。手軽さによるものか。

多分これ、カジュアルだからこそ工夫の余地があるということなんだろうと思う。

現在の歳暮ギフトの主流といえば、大手メーカーのビールやハム、ジュース、お菓子とか。

テンプレートテンプレートアンドテンプレート。テンプレート同士を贈りあっている状況である。

受注会社によって多少のラインナップの違いはあろうが、どの会社もカタログの半分は同様の品揃えなのではなかろうか。

猛烈に工夫の余地がない。

受注店としては可能なかぎり様々な商品を用意して特徴化を図っているが、結局は会社側が用意したカタログから選ぶ仕組みには変わりない。

対してバレンタインデーはどうだろう。

自作のチョコを贈る。レシピこそテンプレートになりがちかもしれないが、それだって無数に存在する。

どんな形にするか、どんなトッピングを入れるか。無限に工夫の余地がある。

それを写真に撮ってSNSにアップするまでが動線。見えるようだ。

散々いうけど、尚ハロウィンの工夫の余地をや

 

例えば、歳暮に何らかの形で工夫の余地を残したらどうか

お手紙が入れられる程度のものではなく、もっと根本的に、DIYしたものを贈るとか、稲作から関わった米を送るとか、そういうレベルで。

ここのところの動向からして、「私が作った」とか「私だけの」とか「私オリジナル」への渇望は途轍もない。

各々の特製品をお歳暮、ないしは「年末のご挨拶」として贈りあって、それぞれでSNSにアップとかしたら。

Facebookで無限に人の投稿を見てしまうあの心情をくすぐってやれはしないか。

水引アートが話題になるくらいだから、カジュアルお歳暮があっても全く不思議じゃないと思う。

ただ、いざ現在のように、全国規模の大プレゼント交換会をやるとなると、どうやって配送するねんみたいな諸問題が上がってくるだろうけど、たいていはドローンが解決してくれる。大丈夫。


承認欲求とプレゼント交換会の掛け合わせだが、きっと相性は悪くない。けど商売としてお金を発生させていこうとすると、やっぱりハードルが上がる。

売れんの?それ。

に口答えするには相当の気合いが求められる。そして萎える。

 

 

既存のお歳暮屋さんの限界

そうはいっても、今もなおお歳暮商戦は猛烈極まっており、いざスタートが切られてしまうと眼前の繰廻しに精一杯になってしまう。

嘘でも1兆円規模(若干満たない)の市場である。

現場にこれ以上の業務負担を増やすことを考えるとゾッとする。無理だ。

そのためだろう。既存のお歳暮屋さんは新規顧客開拓に消極的である。

既存の顧客等にとって便利なサービスへの注力、競合から顧客を呼び込む施策への注力がもっぱらだ。

でも、黙ってたらどこまでも牌は減っていく。下げ止まることはないだろう。

既存のお歳暮屋さんとしては、特命チームでも作って集客計る以外に道はない。でもそこに人的インフラを割くことはないと思う。

きっと人にもそんな余裕がない。

ほんと難しい。


 




スタートラインに立った時にはもう勝負は決まっている。

高校陸上部の恩師の言葉である。

準備段階で全て勝負は決待っている。スタートラインに立った段階での不確定要素なんて微々たるもの。

 

商売にしたってそうだ。

今日の売り上げ、今日の売り上げと売り上げを確認するのは、結果に過ぎない。それを受けてどうするかである。

もっと混め、もっと人集まれと、その場で念じても混まないし人は来ないし売れない。

来期に何を生かすか。

PDCAと言われるようだけれど、とかく季節労働のようなお歳暮のPDCAサイクル実にゆっくりである。

だからこそ一回一回の検討を大切にしなければならない。一回一回、新規開拓に真剣にならないといけない。

 

会社の末梢神経のような立ち位置にいるから、僕の意は大抵発せられた瞬間に雲散霧消する。

これが絶妙にサラリーマンのやる気を削いていくキーであると思うのだが、まぁそれは仕方ない。サラリーマンはそんなもんらしい。

「偉くなった時にやりましょう。」

いつか言われた言葉。典型的だ。それを隠れ蓑にして生きていくのは簡単だが、悲しい。

 

 

以上が、ここのところ感じていることです。

お歳暮、これからどうなっていくのでしょうか。また、どうなって行ったらいいものでしょうか。

どうしていくべきでしょうか。

*1:サイト内pdfよりご覧いただけるとありがたいです。貼り付けるのは怖いのでやめます。