バレンタインデーがチョコレートを贈る日から路線変更しつつある。女性が男性にチョコレートをプレゼントする日が、友チョコが始まったあたりから路線がずれ始め、今ではただひたすらにチョコレートを消費する日へと変貌を遂げた。チョコレートを食べ続けたい気持ちと、それを抑える理性。ごく個人内のせめぎ合いを一時休戦にさせて、いいじゃないの、チョコレート食べましょうよ。とおおらかに包み込むのがバレンタインデーの役割となりつつある。
つまり、チョコレートを贈る日が転じて、チョコレートを食べる日となっている。
忘年会もそう。
年内お世話になった気持ちも込めて、また来年もよろしくのご挨拶をする会だが、お酒が進み、時計がぐるぐる回ると、泥酔の極地へ誘われて忘年会があったことも忘れる。本末転倒である。
つまり、年忘れを標榜しながら、ただお酒が飲みたい。年忘れを忘れる。年忘れ、故に、我年忘れ。なんという哲学か。
さて、クリスマス。
今日はクリスマスイブ。
親から子へのプレゼント。彼から彼女へ、彼女から彼へのプレゼント。何かとプレゼントが交錯する日。それがクリスマス。
プレゼントが交錯するには、大前提となる人間関係が必要だ。見ず知らずの人にプレゼントをするのも相当夢があると思うのだが、大抵の場合気味悪るがられる。
すると、人間関係がないとこのプレゼント交換の輪に入れない。そこそこの浅さの人間関係では、なかなかプレゼント交換するに至らない。
だから僕たちは、自分にプレゼントをする。日頃の労働を自ら慰める。
「今日は〇〇の日」がもつ強制力に踊らされている。
クリスマスなのになんのプレゼントもあげたりもらったりしないの寂しい…という感情は、「今日はクリスマス。プレゼント交換をする日」というのが前提となっているために巻き起こる。
前提なんかきゃええやん。
個々人としてはそう思うがしかし、前提あってこその消費。日頃から買え買え言ってる人間とすると、閉口してしまう。
副交感神経が首をもたげる夜半、咳が止まらない。誰か堰き止めてください。