徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

月よりも街灯が明るいことについて

昨日今日とスーパームーンだったらしい。今朝のJ-WABEで別所さんが話していた。

スーパームーンの名残は今夜の空にもあった。満月から少し欠けた形をしていたけれど、確かに昨日の夜であればスーパームーンだったんだろうと思わせるには十分の大きさと明瞭さ。月を見上げながら新しい通勤ロードである川沿いを歩いて帰ってきた。

川沿いの住宅街とはいえ、街灯はポツポツと置いてある。川を照らし、住宅を照らす。均等に配置されたそれは、僕の影をリレーするかのごとく伸ばしては縮ませる。

月を見上げながら、街灯に照らされる。

どちらが明るいかといえば、街灯だった。

街灯という近くにあるわかりやすい光と、月という遠くにある光。距離も鑑みたら、圧倒的に月の方が明るいはずなのに、目の前の街灯にとりあえずは照らされている。街灯の光を頼って歩く。

月が偉いわけでも、街灯が浅ましいわけでもないが、得てしてこういうことはよくある。本質的に最も重要で大きな出来事が遠くに燦然と輝いているのに、手前の分かりやすい物事に惹かれてしまうようなことが。

 

月の実態を掴んで、月までの道を引いて、ひた走る。

最もやらなければならないことはそういうことだ。だけど、月はすぐ雲に隠れて見えなくなる。満ちては、欠ける。その上、手前にはもっと輝く街灯がたくさんあって、月の姿を見えなくさせる。

でも、定めなきゃならない。走らなきゃならない。

 

メタファーばっかり浮かんでは消える。喩え話はもうわかったら、そろそろ具体的に走って行かねば。ぼんやり思っては浮かぶスーパームーン。いつかたどり着くのだろうか。それに向かって進んでいるのか、はたまた流されているのか。