徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

「歩く」効能について歩きながら考えたので徒然と書く。

生来インプットされているのだろうか。歩くことが好きだ。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

幼稚園、小学校と、2キロ近い道のりを歩いて通った。幼稚園の頃は母親と一緒に歩いた。ほどほどの運動になって良かったと、母は話している。小学校に上がると、友達と登下校もしたし、一人の時もあった。2キロ。道草食いながら遊びながら、よく歩いたものだった。

社会人になった今も、変わらずに歩いている。

最寄駅が各駅しか止まらない駅であるため、隣の特急が止まる駅まで歩いてしまう。その方が時間の融通も効く。やはり、およそ2キロ。20年前と同じような距離を今だって変わらず歩いている。

 

歩いていると考えがまとまっていくなぁというのが上の記事だ。

その理由が少しだけわかった気がするので書こうと思う。

 

歩くと考えがまとまる理由は、二つ。

一つは歩く以外の行動ができないため。もう一つは、とびきり単純な反復作業であるためだ。

 

ktaroootnk.hatenablog.com

 

テレビにスマホにBluetoothにNetflix。情報とメディアにどっぷり浸かっている現代社会の日常において、「なんでもない時間」がとにかく減っている。

三上という言葉をご存知だろうか。

宋の時代に生きた中国の政治家、欧陽脩が残した言葉。物事を考える(文章を書くだったかもしれない)には、馬上、枕上、厠上の三上が適しているという意味だそうだ。

三上に共通していたのは「他に何もできない時間」であった。移動中も、寝る間際も、トイレの中でも、ほかの行動ができないからこそ、思索が捗る。

でも今は違う。

馬上は電車の中。もれなくみんなスマホを触っている。本を読んでいる。寝る間際も充電しながらスマホ。トイレでももちろん。

「ながら」に適したデバイスの登場で、三上の環境は一変したのだった。思索の宝庫ですら、情報を得られてしまう。新しい情報に次から次へと晒され、それらを熟成させることができなくなる。

そこで、歩く。馬にも頼らず、ひたすら歩く。

片手にカバン、もう一方にお弁当を携えて、えっちらおっちら歩く。これがどうしようもなく「なんでもない時間」「他に何もできない時間」になる。ほかの行動が全く取れない。通勤だから、一目散に会社を目指し、一目散に家を目指す。

歩くしかできない中、歩く。

すると脳みそはどうなるかというと、勝手に休むか、勝手に何かを考え出す。情報にまみれた日々のパーツをつなぎ合わせて、なんらかの形を作り出そうとする。考えが煮詰まっているということなのだろう。三上の本来の効能だ。

 

さらに、「歩く」は単純作業。

以前、ひたすらシールを貼り続ける作業に従事したことがあるのだが、その時も猛烈に思索が捗った記憶がある。シールを剥がして貼る。剥がして貼る。剥がして貼る。延々と繰り返す単純作業はいつしか何も考えないで半ば機械的に行えるようになる。

作業に割かれていた頭の容量。それが機械化された瞬間から、頭の容量は空き、思索が回り出す。

「歩く」もそうだ。

1歳ごろに習得するであろう人間ならではの作業、「歩く」。幾度となく繰り返す中で、作業だと思わないほどに当たり前になっていく(あたりまえ体操でネタにされているところからも明らか)。

ひたすら歩く行為は、ことにとびきり機械化された単純作業なのである。

行動のど真ん中が単純作業だと、頭が暇になる。そして、周辺視野に目が行く。

掃除をする時、古いアルバムに手を伸ばすように。食器を洗わなきゃいけないのにこうやってブログを書くように。奥さんがいるのに浮気をするように。周辺視野は常に魅力的だ。

日頃は注目が行かない場所に光が当たる。掃除時のアルバムが、「歩く」時には思索のタネになって現れる。普段考えていなかったけれど気になっていたことが、ビューンと頭の中に飛んできて、気になって仕方なくなる。

 

単純作業としての「歩く」が思索のタネを呼び起こし、「歩く」しかできない環境が考えを煮詰めて行く。

これが「歩く」の効能だ。

 

通勤でひたすら歩くおかげで、最近はとりとめもない考えを浮かび消すことが多くなった。生産性に欠ける行為かもしれないが、考えること自体、嫌いではないようで、実学とはかけ離れたところに思索を飛ばすこともあれば、目の前の商売を考えたりもする。

別に自分の頭だから何を考えようが自由なのだ。

また明日も往復4キロ歩く。

何を考えようか、何が頭に浮かぶのか、楽しみだ。