徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

書くことに何を求めるか

ブログに文章を書き続けて、丸3年が経っている。2014年の夏からなので、丸4年の節目も間も無くやってくる。

古くからの友人にも書くことが好きな者がいるが、彼は僕なんかよりもよほど書くことを真剣に捉えている。小説を書けることもあり、物書きに近い立場で「書く」を考えているようだった。文章で食べて生きたいとこぼす彼の前途は厳しいものであろうが、幸がたくさん降り注げばいいと思う。

先日彼と「なぜ書くのか・書いてどうなりたいのか」の話になった。彼と話すと大抵そういう話になる。で、毎度まとまらず、物別れに終わる。はて、なんで書くのでしょう。どうなりたくて書くのでしょう。

 

最初の最初、ブログに文を書きたいと思ったきっかけは陸上競技を止めることに起因していた。10年も続けたことを終えるのに、何も記さないのはもったいない気がしてならなかった。

その時なぜ「書く」というツールで自分を表現しようとしたのかは、多分育ちかたや気質のせいだったと思う。

小学生の頃、夏休みの課題で毎日の出来事を記した日記帳を提出していた程度には書くことが好きだったし、少しは書けるつもりでいた。チラ裏に書くべき氏がない文章でも、少しでも面白がって読んでくれる人がいるかもしれない。そんな思いもあって、ブログに文章を書いてみようという気になった。

 

2014年の夏に始めたブログ。2014年の秋にピリオドを打った陸上。わずか季節をひとつ乗り越えただけで、大義名分をクリアしてしまった。それでも書き続けたし、むしろそれから火がついたように書き続けて今を迎えている。何に向かって書いてきたのか。

 

僕の書く理由が向かった先は、思考の整理と感情の整理だった。

何かモヤモヤする。何かイライラする。その、何か、を表すために。また、仕事だったり電車の中吊りだったりについて考えたことを表すために、僕は書いた。書いている。

そもそも、書き出すきっかけだった「陸上競技を終えること」すら、自分にとって酷くエモーショナルな出来事であり、それを綴ることはすなわち、感情の整理だった。

僕は最初から思考の整理と感情の整理しかしていなかった。徹頭徹尾、人様に見せる類の文章ではないのだ。

 

友人の彼は、いい文章を書きたいから書いていると言う。いい文章って何かを訪ねると、読んだ人の人生を少しでも動かす文章だと言う。

彼の経験、彼の空想、彼から出た全てを文章に注ぎ込み、小説を組み立て、フィクションが映した世界を通して人を動かす。

彼の志は本当に高い。

素直に、僕にはできないと思った。なにしろ人のための文章を書いた試しがないから。ほとんど理解できなかった。

 

時事問題にも人の考え方にも言及することなく、誰かが幸せになって欲しいという思いも込められていない、あくまで自分本位な文章。売れたいでもなく、噛み付くでもない、街中で静止してるパントマイマーのように、自己陶酔の形を誰かに楽しんでもらえればそれでいいだけの文章。これは生きている限り、何かを感じて何かを考えている限り終わることがない。例えこのブログが全部なくなっても、ブログがなくなった悲しみを整理するために、間違いなくまた書く。それは心に詰まったモヤモヤを取り除くために、喉に指を突っ込んで吐いている様を、文章に乗せて人様に見せているのに等しい。ひどい趣味だ。もらいゲロのようにモヤモヤを映画とかで解消できる性分ならどれだけ良かったことだろう。誰にも迷惑かけずにモヤモヤを吐けるなんて。映画を見たとしてもスッキリなんかしない。また、書く動機ができてしまう。書かずにはいられなくなってしまう。こんなにエネルギーを使って、時間を使って、自らを慰めなければいけないのだ。なんのカルマなのだろうか。あばばばば。

 

そういうスタンスでまだまだ書いていく。

僕の人となりを知ってある人、あるいは、こういう文章が嫌いじゃない奇特な方であれば少しは面白いかもしれない。多くの人には右から左へ流れていく文章のひとつだろう。それでいい。それでいいんです。

チラ裏パントマイマーとして、今日も。