徒然雑草

踏みつけられるほどに育つ

火消し役の自己矛盾について

僕は火消し役です。

当社的なファイヤー案件の鎮火のために東奔西走なんのその。きっと最後は大団円にならないまま次の鎮火にえっちらおっちら向かう。最近要領をつかみ出したので、火が出るなりいざ鎌倉と叫びながら1番隊となって突っ込み、一所懸命に当社の沽券保守に努めておる次第。

火に突っ込んで戦うファイター。ディフェンシブな実働部隊。多くの人は、あまりやりたがらない職種のようだ。火が強すぎて近づけないこともあれば、火の粉が降りかかって火だるまになることもある。生物の原理として生存を求める僕ら人間は、無意識的にストレスフルな環境を避けたがるようで、他部署からは尊敬にも憐憫にも似た目を頂戴することが多々ある。

 

あったりまえの大前提だが、火事はないほうがいい。

なにしろ、燃えている主体が一番気の毒である。自然発火か、放火か、様々事由はあろうが、意図せず燃えている。何人として、本性から燃えたいと思っている人はいない。

火消し役についても先述の通り。

つまり、燃えている主体と、火消し役。二者の危険差し迫る攻防は、お互いがお互いにしんどい思いをしながらやり合っているのである。なんと不毛か。なんと非生産的か。

だから、火事をなくそう、火事をなくそうと、躍起になる。ファイヤーマンたちは、火の手の様子や発火原因を報告、再発防止に努める。

 

多くの人がやりたがらない火消し。では火消しの真っ只中にいる人間は何を感じて、何をモチベーションに戦っているのか。

情けないかなそれは、「人のやりたがらない重要案件をやり遂げた」という一種の達成感である。

長期的に見れば、会社として間違いのない対応をすることで信頼回復につながり、顧客離反が防げるとかなんとかって話にもなるが、目先目先の山を越えるにはその達成感に頼る他はない。

 

しかしこの達成感。

こいつが問題である。

中途半端な「やれた感」は心地よさを生み、結果、根本的な解決の動きを鈍らせる。火が上がったら消す。やりたがらない人からは感謝される。達成感に浸る。そのうちにまた火が上がる。

これじゃ意味ない。火が上がらない頑強な仕組みが必要なのだ。達成感なんていう脂肪と糖のスクランブルより、良質なタンパク質のような屈強な仕組みが。

 

また、得てして、火消しに必要な労力と精神力は凄まじいものがある。火消しの最前線では根本を叩くまで手が回らず、別の部署に根本的な解決を委託することが多い。

しかし、伝言ゲームで言葉が変化して行くように、火消しの思いや苦労を込めた伝達はどんどんと薄まっていき、しかるべき部署にたどり着いた時にはすでに二の次案件となってしまう。

だから、発火と消火の水掛け争いが止まない。

 

  • 自らの達成感を棚上げして業務と向き合えるか。
  • 火を間近にしながら感じた危機感を十全に伝えられるか。

火消し役はこの二点を忘れてはならないし、火消し役ではない人も、この二点を念頭に置きながら火消し役と接し、話をよく聞かなければならない。対症療法で業務を終わらせてはならないのだ。

 

理想を言えば不要な仕事、火消し。火消しのノウハウは必要だとしても、火消しそのものは不要だ。

一兵卒としては、コツコツと現状を投げ続けるしかない。危機感も、持つ人が持てば一大事だが、僕が持っても戯言となる。それでも、コツコツ投げる。

ちらちら降る雪でも気づけば相当積もっているように、石を穿ちまくっていきたい。